透明な羽根
✿第一章 屋上の風
春の風が、校舎の屋上を静かに撫でていた。
遥はフェンスのそばに立ち、遠くの街並みを見下ろしていた。昼休みの喧騒は、ここまで届かない。教室では誰もが誰かと話し、笑い、騒いでいる。けれど、遥にとってその音は、まるで雑音だった。
彼女には、他人の感情が「色」として見える。嘘をつくと灰色、嫉妬は濁った緑、優しさは淡い金色。だからこそ、誰かと話すたびに、心の裏側が透けて見えてしまう。それが苦しかった。
「またここにいたんだ」
声に振り向くと、陽翔が立っていた。彼もまた、教室では浮いている存在だった。誰とも深く関わらず、けれど誰にも嫌われない。そんな不思議な距離感を持つ少年。
「別に、ここが落ち着くだけ」
遥はそっけなく答える。けれど、陽翔の周りには、色がなかった。無色透明。それが、遥には心地よかった。
「俺さ、君のこと、ちょっとだけ分かる気がする」
遥は眉をひそめた。「何が?」
「仲間になれないって、孤独だよな。でも、無理に輪に入るより、自分の世界を守る方が大事な時もある」
その言葉に、遥の胸が少しだけ揺れた。彼の言葉には、色がなかった。ただ、風のように自然に届いた。
「……あなたも、見えるの?」
「見える? 何が?」
遥は答えず、そっと目を閉じた。陽翔の言葉が、彼女の中の何かをほどいていくのを感じていた。
そして、彼女の背中に、誰にも見えない羽根が広がった。淡い金色の、透明な羽根。
✿第二章 色のない世界
遥は、自分の羽根が広がったことに気づいていた。もちろん、目に見えるものではない。けれど、陽翔の前では、隠す必要がないように思えた。
「ねえ、陽翔くんはさ……人の気持ちって、どうやって分かるの?」
屋上の風が、二人の間を通り抜ける。陽翔は少し考えてから答えた。
「分かんないよ。たぶん、俺は人の気持ちなんて、ほとんど分かってない。でも、分かろうとすることはできる。それって、意味あると思うんだ」
遥はその言葉に、少しだけ笑った。彼の言葉には、色がなかった。けれど、それは空っぽではなく、混じり気のない透明だった。
「私ね、人の気持ちが見えるの。色で」
「……色?」
「うん。嘘は灰色、怒りは赤、優しさは金色。でもね、見えるからこそ、怖いの。みんな、表では笑ってても、心の中は違う色をしてる。だから、仲間になれないの」
陽翔は黙って遥の言葉を聞いていた。彼女の声は、風に溶けるように静かだった。
「でも、君の周りには色がない。透明。だから、少しだけ安心できる」
陽翔は照れくさそうに笑った。「それ、褒められてるのかな」
遥は初めて、心から笑った。その笑顔は、淡い金色に輝いていた。
✿第三章 傷の色
翌週、クラスでちょっとした事件が起きた。
美咲が遥に「もっとみんなと話したら?」と声をかけた。悪気はなかった。けれど、その言葉の裏にある「普通になってほしい」という感情が、遥には濁った紫色に見えた。
「……無理に仲間にならなくていいでしょ」
遥の言葉は冷たく響き、美咲は傷ついた顔をした。教室の空気が一瞬、凍りついた。
昼休み、遥は屋上に行かなかった。代わりに、図書室の隅で膝を抱えていた。
そこに、陽翔が現れた。
「逃げるのも、守るのも、どっちも間違ってないよ」
遥は顔を上げた。陽翔の周りには、やっぱり色がなかった。
「でも、誰かを傷つけたかもしれない。私、また仲間になれなかった」
陽翔は静かに言った。
「仲間って、輪の中に入ることじゃない。誰かの世界を、少しだけ覗いてみることだと思う。君の世界は、俺にとってすごく綺麗だよ」
遥の目に、涙が浮かんだ。それは、淡い水色の感情だった。
✿第四章 羽根の記憶
遥は、図書室の窓から差し込む光を見つめていた。陽翔の言葉が、心の奥に静かに残っている。
「君の世界は、俺にとってすごく綺麗だよ」
その言葉を思い出すたび、遥の中に金色の光が灯る。誰かに「綺麗」と言われたのは、初めてだった。自分の世界が、誰かにとって価値のあるものだと知ることは、こんなにも温かいのか。
放課後、遥は屋上へ向かった。風が少し冷たくなっていた。そこには、陽翔が待っていた。
「来ると思った」
「……なんで?」
「君の羽根が、また広がる気がしたから」
遥は驚いた。陽翔は、見えているのだろうか。彼女の羽根を。
「ねえ、陽翔くん。私、昔は羽根なんてなかった。色も見えなかった。ただ、普通に生きてた。でも、ある日突然、全部が見えるようになったの。友達の嘘、先生の苛立ち、家族の不安。それが怖くて、誰とも話せなくなった」
陽翔は黙って聞いていた。遥は続ける。
「でも、君は違う。君の周りには色がない。だから、私の羽根が広がるの。君の前では、隠さなくていいって思えるの」
陽翔は少しだけ笑った。
「俺も、君といると、自分のことを話したくなる。普段は誰にも言えないことでも、君なら聞いてくれる気がする」
遥は、そっと手を伸ばした。風に揺れる空気の中で、彼の手に触れた瞬間、彼女の羽根が大きく広がった。
それは、淡い金色と水色が混ざった、優しい光の羽根だった。
✿第五章 色を持たない約束
季節は少しずつ夏へ向かっていた。
遥は、少しずつクラスの中でも話すようになっていた。美咲とも、ぎこちないながらも言葉を交わすようになった。色はまだ濁って見えるけれど、それでも、遥は逃げなくなった。
ある日、陽翔が言った。
「俺、転校することになった。父親の仕事の都合で、来月には引っ越す」
遥は言葉を失った。彼がいなくなる。それは、羽根を失うような感覚だった。
「でも、約束する。君の羽根は、誰かに見える。俺じゃなくても、きっと誰かが、君の世界を綺麗だって思ってくれる」
遥は涙をこらえながら、頷いた。
「ありがとう。私、もう仲間になれないって思わない。誰かと違っていても、私の世界は、私だけの色でできてるから」
陽翔は笑った。
「その羽根、ずっと大事にして」
そして、彼は去っていった。
遥は、屋上に立ち、風を感じながら目を閉じた。
彼の言葉が、彼の無色透明な存在が、遥の中に残っていた。
そして、彼女の羽根は、誰にも見えないまま、静かに輝いていた。
✿エピローグ 風の中の色
陽翔が転校してから、遥は屋上に行かなくなった。
あの場所には、彼の気配が残っている気がして、風の音さえも彼の声に聞こえる。けれど、遥はもう逃げないと決めていた。
ある日、美咲が声をかけてきた。
「ねえ、遥ちゃん。最近、ちょっと変わったよね。なんか、話しやすくなったっていうか…」
遥は少しだけ笑った。
「うん。私、誰かと違っていてもいいって思えるようになったの。仲間になれなくても、誰かの世界を覗いてみることはできるって、教えてもらったから」
美咲は不思議そうに首をかしげたが、笑顔で「それ、いいね」と言った。
遥の目には、美咲の感情が淡い桃色に見えた。少し照れくさくて、でも優しい色。
放課後、遥は一人で屋上へ向かった。
風は変わらず吹いていた。空は高く、雲はゆっくり流れている。
遥は目を閉じて、そっと手を広げた。
彼女の背中には、誰にも見えない羽根が広がっていた。金色、水色、桃色、そして透明な光が混ざり合って、風に溶けていく。
「ありがとう、陽翔くん」
遥は心の中でそう呟いた。
彼が残してくれた言葉は、遥の世界に色を与えた。そしてその色は、誰かと分かち合えるものになった。
遥はもう、仲間になれないことを怖れていない。
彼女は、自分の色で羽ばたいていく。
𝑭𝒊𝒏.
お題♯仲間になれなくて
9/8/2025, 12:37:02 PM