たとえ間違いだったとしても
一度しっかりと距離を取るべきだと思った。
精神的に離れることはできそうもないから、まずは物理的に。体を無理矢理にでも遠ざければ、きっと心の方もそれに合わせるように正しいはずの距離に収まることができるはず、そう縋るように思い込むしかなかった。
物心がついた頃には隣にいるのが当たり前の人だった。
初めての記憶は手を引かれて歩いた夕暮れの道。一回り大きな柔らかい子どもの手に包まれて、今はもう埋め立てられてしまった川辺りの道を歩いていた。
歩くたびに夕日に染まったその人の髪がきらきらと輝いて、飽きもせずにじっと見上げていた。
どこかのスピーカーが少しひび割れた夕焼け小焼けを流していて、それに混ざるように頭一つ上から振ってきていた声はもう忘れてしまったけれど、優しい響きが大好きだったことは覚えている。
大きいと思っていた背中は、その背を追い抜いてもなお広く逞しく。ずっと憧れて、焦がれて、追いかけ続けていたせいで、気がついた時にはすっかりと目の逸らし方がわからなくなっていた。
このままではいずれその人なしでは真っ直ぐ立つことすらできなくなってしまう。漠然とした危機感は日常に忙殺され、結局初回割引で半額になった占いに背を押してもらう形で、その日の内に片道分の航空券のチケットを予約した。
帰らないつもりではないのだ。ただその人にしがみついた心を剥がすための時間がどれ程必要なのか、自分でもわからなかった。
幸い大学生の夏休みには無計画な放浪を許すだけの時間がある。金の方は少し心許ないが、元々浪費癖がある訳でもない。将来一人暮らしをする時のためにと貯めていた金に手を付ける躊躇いさえ振り払えれば、後は何も問題なかった。
飛行機のチケット一枚と数日分の着替えだけを詰め込んだリュックサックは随分と軽い。
まだ寝ている家族を起こさないように、口の中だけでいってきますと呟いて、玄関の扉を開けた。
「どうして」
家の前の道路には見覚えのある中古のミニバン。そこに寄りかかるようにして、腕を組んで立っていたのは旅の目的とも言えるその人だった。
できる限り安く済ませるために買った飛行機のチケットのせいで、今はまだ早朝とも深夜とも言える時刻だ。朝日は空の端に薄らと気配を漂わせているだけで、寺の鐘の音どころかカラスの鳴く声すら聞こえてこない。
自分以外の全てが眠りについていると思っていたのに、一番起きていてほしくなかった人が眠気すら見せずにそこにいた。
けれど心は素直なもので、背筋の伸びたその姿を見ただけで嬉しい嬉しいと手を伸ばそうとしてしまう。
頭と心の温度差で目元が熱を持ち、まばたき一つで睫毛が湿った気配がした。
「今日発つって言ったのはお前だろ」
玄関で立ち尽くすこちらに向かってその人が大股で近づいて来る。
その場に張り付いてしまったかのように動かない足に対して、目はその姿を逃すまいと懸命に追いかけている。
玄関までの距離はたったの数歩だ。目の前のその人は、肩に引っ掛けていただけのリュックサックを無遠慮に奪う。
冷え切らなかった風が温く吹き抜ける。
そのまま車へと戻り、助手席のドアを開くと奪われたリュックサックはドサリとその中に放られてしまう。
「送ってく」
それだけ言ってその人は、こちらを見もせず運転席に乗ってしまった。
逃げようにも飛行機のチケットはリュックサックの中だ。向かえる先は一つだけ。
建付けの悪くなった鉄の門扉を閉めると、ギィと聞き慣れた耳障りが静かに響いた。
「何隠してる」
フロントガラスを睨むように運転するその人が口を開いたのは、何個目かの赤信号だった。
八人は乗れるミニバンに二人きり。賑やかな声のしない車内はエンジンの音だけが重苦しく響いている。視線のやり場に困って、流れていく街灯の明かりを見るとはなしに見ていた。
「なにも」
素っ気なく聞こえるように返した言葉で、反射した窓に映ったその人が眉間の皺を濃くする。
長い長い溜息を吐き出して、それでも消えなかった皺を指で解す姿はどこか疲労が滲んで見えた。
信号が青に変わる。
緩やかに加わった慣性に逆らわず、座席に身を沈めた。
「いつ帰ってくるんだ。迎えに行く」
「いいよ。決めてないし」
車に乗ってから初めてその人がこちらを向いた。
見開かれた目が窓越しにこちらを見つめてくる。
危ないよ、と
「」
「決めてないってお前……大学はどうすんだ」
「それまでには帰るつもり」
「……お前がいないとあいつら寂しがるだろ」
昨夜、体力の限り足にしがみついて離れなかった末っ子の姿を思い出す。年の離れた末っ子は
「そのうち慣れるよ」
どうだかな
「俺は無理そうだ」
「お前は一度決めたら曲げないからな」
幼い頃の呼び方で呼べば
「いってこい」
4/23/2026, 9:52:28 AM