左様なら

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「さよならは言わないで」
あの日、あなたはそう言いましたね。俺の右手を握る両手に、きゅっと力を込めて。酷く真剣なその眼差しを真正面から受けて、俺は日頃から隠していた想いが溢れそうでした。
しかし、今更想いを口にするつもりは毛頭ありませんでしたから、俺は目尻の力を抜いたのです。
「では、なんと?」
「行って参ります、で宜しいのです。いつもの様に、行って参りますと言って」
「……あなたなら、そう仰ると思いました」
「なのに、言わないの」
「ええ」
「行って参りますと伝えたなら、必ず帰って来てただ今戻りましたと伝えなければならない」。あなたと初めて交わした約束事でした。他にも幾つかの約束事はありましたが、俺はこの約束事が一等好きだったのです。あなたの愛と、祈りが感じられたから。
だから、俺は静かにあなたの小さな両手から身を引きました。一等好きなあなたとの、一等好きな約束事を破らない為に。
「どうか健やかに、幸せにおなりください」
あの日、俺はそう背を向けましたね。
しかし今になって俺は後悔しています。嫌がられてもきちんとあなたに「さようなら」と、明確で確実な最期を告げるべきだった。優し過ぎるあなたの幸せを心から願うなら、あなたの中から俺という存在を完璧に切り取るべきだったのです。
「……ああ……」
今更告げようと開いた唇は、鉄黴臭い泥土に塞がれて痙攣するばかりだった。

12/3/2024, 7:50:31 PM