郡司

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友情

ありふれた言葉のはず、なのに「友情」と考え始めるとわからない「友情」。少なくとも、私にはピンと来ない曖昧さ。はたして私の周りに、一般に持たれているイメージどおりの友情なんてものはあったろうか。少なかった気がする。

今の私が「友」と呼びかけるのは(極端に少ないが)、心延えに信頼が置ける人格であるのはもちろんながら、互いの間に、ありがたくないものも含めて“何でもあり得る自由意志”が尊重され、「自分の生きる責任」を自ら担い、己の道をゆくが故に「全く対等」を認め合う者だ。なので、物騒な可能性も僅かながら含んでいる相手もある。しかし、だからといって「お前はお前の好きにしろ。如何であろうが知らぬ」というわけではない。「もっと良い選択肢がぶら下がってないのか」などと“お節介スレスレ”な対話や働きかけはする。

…と表現すると、やたらに硬質で「どこの世界のハナシだ」という印象になるな…うーん。でも本質を抽出して言葉で顕すと、私から見た「友」はこうなのだ。

全体を見渡してみると、自然のなかの種族たちの関係性はまさにそのままだ。人間だけが、違う理由と要因で「友」を擬態したりする。それぞれにそれが必要である「ワケ」が有るのだろうけれど、疲れないのだろうか…?

「友情」が友情でないものをたくさん見てきたし経験してきた。薄ら寒いと思う。だからこそ私は「くそ熱い、圧の高い奴」で居ようと思う。自分の中に「氷の冷たさ」もある。自分の「熱」を忘れないように生きて行くことは、命あるものへの、私なりの「友情」だ。

7/25/2024, 5:44:43 AM