猫田こぎん

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#愛情

 「愛情」とは「優しさ」と同じくらい定義が曖昧だと思う。
 何を以て「愛情」とするのか。
 親から子への愛情、愛しい他者への愛情、しかし、そこに打算や駆け引き、そして損得勘定がない前提でないと愛情とは呼べないのではないか。
 もしくは、愛情というものにはそういった俗物的なものも内包しているのか。
 
 「男」や「女」、または「人」と言った主語の大きな話になると収拾がつかないので、あくまでも私一個人の考えとして、あるいは肌感としての話をしよう。

 例えば親子間の愛情。
 私自身は、親から好きなものや行動を否定されたことはない。自分の好きなものを馬鹿にされるのは本当にしんどいであろうから、その点はマイノリティ寄りの趣味でも恥ずかしげもなく「好きである」と主張できる(もしくは他の人と違っていても気にしない)メンタリティに育った。
 しかし、否定はしないが保護もしない人たちだった。
 勉強もしろと言われた覚えはなく、必ず「知らないからね」という叱られ方をした。
 勉強ができなくても、テストの成績が悪くても、アンタが困っても、全て「知らないからね」と言われた。
 なので、常に自分で決め、自分で判断して、誰もケツモチしてくれない中で生きてきた。
 そしてある程度の年齢になったら、「アンタはどうせ何を言っても聞かないんだから」という言葉に変わった。
 いや、賛成も反対も代替え案も何も提示されなかったから自分でやることに決めざるを得なかったんですけれども?と思うが、早い段階で親と私は違う生き物で見えているものも感じ方も全て異なっており、意見を鵜呑みにする必要はないと断じていたので、「また言ってら」となった。
 母は私の言動の結果が悪かった時のみ、無言を貫いていたのに「だからあの時私は言ったのに」という呪詛を吐きがちで、「アンタに言っても聞かないからね」がセットになる。
 それでも、私は母が好きだし、そういう人なんだと飲み込んでいる。
 「母親らしいことをしてこなかった」と唐突に言われたことがある。結婚してからだ。
 「申し訳なかったかもしれない」と謝罪された。
 特に感情は動かなかったし、母は「私の母親」というくそめんどくさい役割を頑張っていてくれたなと思う。私は自分の子供の頃みたいな子を育てるのは絶対に嫌だ(ものすごく捻くれてて扱いづらい)。

 結婚してから、夫の母、つまりは義母という存在が爆誕した。
 義母はとても素直な田舎の人と言った感じで、私の母とは全く違う(思えば、私の母は新宿育ちの一人っ子で社長の娘、義母は生まれも育ちも青森で7人兄弟の5番目)。
 義母に接していると、「お母さんってこんな感じなんだぁー!」と思う。
 私の夫に対して心配性で、でも過干渉ではなく、毎年たくさんのりんごを送ってきてくれて、私に対してもとても優しくフレンドリー。
 毎年の帰省では、夫の兄弟家族とみんなでご飯を食べに行き、義母が全額出してくれる。みんなで集まれるのが楽しいと言い、帰省中は上げ膳据え膳。手伝いもいっさいしない。夫が運転する車で3人(ないし未婚の義兄も一緒に4人で)青森県内の観光スポットに遊びに行ったり、まじでただの観光旅行。それなのに「来てくれてありがとう」って。え、神?神様なの? 
 ああいう人は愛情深いって言うのだろう。そう感じる。
 子(この場合夫)と子が選んだ女(私)に親切にしてくれ、愛情をかけてくれる。義母を見ていると、親子の愛情ってこういう感じなんだなーと思うのだ。まさに無私。損得なしの掛け値なし。

 私は母のことが「好き」だし、父も「別に嫌いではない」。一番上の姉のことは「嫌い寄りの普通」だし、真ん中の姉のことは「無」である。
 自分の親戚関係はほぼ「かなり苦手寄りの普通」で、ううん、「どちらかというと関わり合いたくない」かな。ちなみに祖父母はどちらも他界している。
 そして、義母は「好き」で、義兄家族も「好き」で、未婚の義兄も「普通」で、夫の親戚関係は「好ましい寄りの普通」である。

 こうなると関わった年数は、相手に対する愛情には関係ないのかもしれない。

 愛情って難しいね。

 最後に。
 私が一番愛情を傾け、愛情をもらっていると感じる人は、言うまでもなくなく夫で、夫が幸せでいれば他のことは概ねどうでもいい。誰が死のうが生きようが関係ない。誰が不幸になろうとも、夫さえ幸せでいてくれればそれが私にとっての最善。夫と母が川で溺れていたら、「お母さんごめーん」って言いながらまっしぐらに夫を助ける。夫を助けたあと母も助けるけどね。
 あとは猫。猫に対しては無限の愛情が湧く。
 まあ、猫はね。唯一絶対神だから。


2023.11.28 猫田こぎん

 

11/28/2023, 1:10:06 AM