『泣かないよ』
昔の彼女は負けず嫌いで泣き虫だった、らしい。
幼少期の彼女をよく知る元婚約者という立場の相手から、得意げにそう言われた。
どうしても、彼女が俺と交際している事実を認めたくないらしい。
幼い頃の彼女のことを知りようもない俺に対して、彼がマウントを取りにきた。
俺としてもことと次第では全面戦争を辞さない覚悟でいたが、そんな彼の言葉につい心を弾ませてしまう。
「あ、やっぱりそんな感じだったんですか?」
*
「今日、あなたの元婚約者にお会いしましたよ?」
自宅で出迎えてくれた彼女に、俺は開口一番、今日の出来事を告げた。
すると、形のいい彼女の眉毛が不機嫌に歪む。
「言い方。そんな大げさなもんじゃないってば」
電気ケトルに水を入れた彼女は、そのままスイッチを入れた。
キッチン戸棚に手を伸ばした彼女の代わりに、お揃いで買ったマグカップをふたつ取り出す。
彼女のマグカップにはインスタントの味噌汁を、俺のマグカップにはドリップコーヒーをセットした。
「俺がいないことをいいことに、お互い18歳になっても好きな人ができなかったら結婚しようね♡ なんて約束してたクセしてとの口が言いますか」
「当時はれーじくんと出会ってすらいないし、そもそも、そんな約束をした記憶もねえよ」
隣に立つ彼女をむぎゅむぎゅと抱きしめると、心底うっとうしそうにため息をつかれた。
「それで?」
「え?」
彼女が本題を切り出そうとした瞬間、電気ケトルのお湯が沸く。
モゾモゾと俺の腕から抜け出した彼女が、マグカップにお湯を注いだ。
「どうせ勝手にマウント取られた気になって、いじけて帰ってきたんでしょ?」
「いじけてません。嫉妬でどうかしそうだったので、どうあなたを抱いて甘やかして癒されてやろうか考えながら帰宅しました」
「最低」
「俺が年下というだけで、あなたの初めての彼氏も初めての婚約者も俺でないとか……ありえなくないですか?」
「年下関係ないし、なんだよ、初めての婚約者って。婚約の破談が何度も何度も続いてたら私がヤバいヤツだろうが」
彼女がヤバいのは事実だ。
そのかわいさは、確実に他人の人生に大きく干渉するから、いい加減にしてほしい。
「俺にもなにかください」
「は?」
「あなたの初めてをください!」
「くださいって言われても……」
「なにためらってんですか。この流れと勢いは俺と結婚するところでしょうが」
瑠璃色の瞳を泳がせながら思考を巡らせていた彼女の表情が、俺が本音を滑らせたせいでスンッと消える。
「今のその発言のせいで、流れと勢いは消し飛んだからな?」
「なぜですか!?」
コーヒーと味噌汁、それぞれふたつのマグカップを手に、彼女はひょこひょことリビングまで移動した。
「それより、なに言われてきたの?」
「ああ」
ソファに座り、コーヒーを口に含みながら俺は彼から得た収穫を打ち明ける。
「あなたが昔は泣き虫だったってことを知りました」
「え、怖。なに話してくれてんの? は? 待って。れーじくん、逆によくそんな話題を引き出してきたな? ウソ!? 怖っ」
「最初こそ、答え合わせができてスッキリはしたんですけどね……」
なんなら、現在の彼女の行動理念の答え合わせも兼ねて、幼少期のことを根掘り葉掘り聞き出しては、俺が勝手に舞い上がったまである。
とはいえ、だ。
「俺が知りようもない、あなたの幼少期のカードを悪びれることなくいけしゃあしゃあと切ってくる行為は純粋にムカつきます」
「れーじくんが懸念してるような感情は彼にはないと思うけど」
「恋愛感情抜きにしたって、彼はあなたのことが好きでしょう」
敬愛、友愛、親愛いずれにしても彼女を好意的に思っていることには変わりない。
俺の器量の問題でしかないが、そこに恋愛が含まれようがいなかろうが、その事実に嫉妬せずにいられなかった。
それに、人の感情は些細なことで移り変わる。
いくら顔見知りとはいえ、元婚約者である彼のことを信頼するほど関係を築いてきてはいないのだ。
「でも、どこで私が泣き虫だって思ったの? 自分で言うのもアレだけど、人の心ないのかとかよく言われるし」
「……」
それは彼女が元気にコートの内側に立ったときに限った話だろう。
実力が拮抗している対人戦において勝ちを掴むのは、だいたい性格の悪いヤツだ。
「俺に抱かれてるときはグズグズ泣くじゃないですか」
「はああっ!?」
「ほら。今も。ちょっと図星を刺されてこんなに顔を真っ赤にして。恥ずかしくなって少し泣きそうになってますよね?」
「……う……」
しどろもどろになりながらも、彼女は羞恥で震えた唇を動かす。
「きょ、今日は、……泣かない、よ……」
……へえ。
「今日、抱いてもいいんですね?」
「えっ!? だ、だって最初に……」
「でも、最低と言われてしまったので♡」
「……ずっる……」
ずるいのはどっちだ。
こっちはマグカップを持っていなければ、そのままソファに押し倒すところだったんだぞ。
今にも溢れてしまいそうなほど涙を溜めていることを、彼女は自覚しているのだろうか。
薄膜に光る瑠璃色の目元に、俺はそっとキスを落とした。
3/18/2026, 4:50:11 AM