「嫌な事を言われたら、これを耳に当てて。」
彼女は貝殻を二つ、僕にくれた。そこからは波音が響く。
「何で生きてるの?」
母は僕を睨みつけ、言う。僕は貝殻を耳に当てた。嫌な事、聞きたくない事を言われた時、僕は貝殻を耳に当てた。そうすると、僕の耳に届くのは波音だけになる。これを教えてくれたのは、幼馴染の女の子だった。
彼女は病弱で、いつも家の中に居た。そして向かいにある僕の家を、じっと見ていた。時々、僕は彼女を見舞いに行った。その度に彼女は、笑って出迎えてくれた。
「これを君にあげる。」
そう言って、彼女は僕の手に貝殻を二つ乗せた。
「耳に当ててごらん。聞こえてくるでしょ?波音が。」
僕が彼女に言われた通り、貝殻を耳に当てると、波音が耳に響いた。僕が驚いている様子を、彼女は微笑みながら見ていた。
「こうすれば、嫌な事は聞こえないよ。」
彼女は僕の家庭の事情を知っている。だからいつも、僕の家を心配そうに見ていたのだ。
「私はね。もうすぐ死ぬ。地平線の向こうに行くんだ。」
彼女は明るく言った。本当は泣きたいはずなのに、彼女は涙を一つも見せなかった。
「私は、君が心配だよ。」
彼女はいつもそんな事を言っていた。
彼女が死んでから、何年も経っているのに、僕はまだ彼女との思い出に縋っている。僕は今も、あの頃と変わらぬままだ。それは僕の周りも同じだ。暴力と暴言の家は、今も健全だ。変わってしまったのは、彼女だけだったんだ。
夜の海。そこには、終わりのない地平線だけがあった。僕は、ゆっくりとそれへと進んだ。
「地平線の向こうに行ったら、会えるかな?」
そんな事を思いながら、僕は濡れる服を気にも止めずに進む。次第に、僕の体は海に満たされる。耳には、波音が聞こえた。まるで僕は、貝殻の中に入ってしまったみたいだった。
9/5/2024, 3:27:20 PM