「夜が怖いと思うのは、見えない事が不安だからだ」
暗がりを、それよりも昏い漆黒が歩いて行く。
「見えれば脳がそれを判断できる。記憶から情報を抜き出し、害あるものかそうでないかが分かるだろう。例えば」
かたり、かた、かたん。
見えない闇の先で音がする。
手にした提灯を向けると、そこには立てかけられた木の板。先ほどの音はこの板が音を鳴らしていたようだ。
「音がして、何を思い浮かべるのか。形。大きさ。材質。無機物か、生物か。目で認識したものとそれは、果たして同じだっただろうか」
立ち止まり距離が開いた事で、彼が視界から消える。
灯りの照らす範囲から出てしまったのだ。黒の衣服を身に纏い、黒のフードで顔すら分からぬ彼は灯りがなくてはその姿を捉える事が出来ない。
少し早足で後を追う。灯りの届かぬ暗がりに、立ち止まり待つ彼の口元だけが白く浮かび上がり、びくり、と身を震わせた。
と、と、と。ずり、ずっ。
背後から別の音。
振り返り提灯を掲げても、音は灯りの外にあるのか見えはしなかった。
諦めて前を向き直り、先行く漆黒を追いかける。
「暗闇は目を塞ぐ。残る器官は目の役割を補おうと常よりも鋭くなるだろう。気にも留めないはずの音や匂いを感じ取り、そこから情報を得ようとする。だが判断するには到底足りない」
たん、たん、ぎぃ、ぎぃぃ、たん。
上か下か。あるいは左右のどちらか。
音がする。暗がりに見えぬ何かが音を立てている。
灯りを向けて確認する事はしなかった。
それはきっと無意味な事なのだろう。
「判断出来ぬからこそ怯え、警戒する。不安に脳が混乱し、時に見えないものすら作り出す」
提灯の明かりと暗がりの境界が、歩く度に揺れる。揺れる境界が輪郭を変えて、いくつもの白い手になり招いている幻覚を見、振り切るように頭を振った。
「とはいえ、最初から暗闇にあれば時期に目が慣れてくるだろう。灯りがあるからこそその明るさに縋り、光の届かぬ暗がりを余計に怖れてしまう」
ふっ、と。
不意に提灯の明かりが消える。
一寸先も見通せぬ暗闇に立ち止まる。先が見えなければ、どちらに向かえばよいのか分からない。
と、と、と、ずりっ、と。
たん、たん、ぎぃぃ、たん。
かたん、から、から、かたり。
音がする。四方から大小様々な音が聞こえる。
誰かがナニかを引き摺りながら近寄ってくる。
縄にぶら下がるナニかが揺れて壁にぶつかっている。
卒塔婆が風に吹かれている。
幻覚だ。実際に見たわけではない。
すべて音を聞いた脳が作り出したまやかしだ。
「こちらだ」
声と共に手を引かれた。
促されるままに、再び歩き出す。
「暗がりを怖れ見る幻覚は、脳が錯覚して引き起こされたものだ。だが逆に、人を惑わすのに必ずしも暗闇は必要ないとも言える。直接脳を惑わせばいい」
ぼっ、と。
周囲に灯が点り、明るさに目を細める。
手にしていたはずの提灯はどこにもない。
「もうすぐだ」
するり、と引かれていた手は離れ、灯りに切り取られたかのような黒は歩き出す。
随分と歩いてきた。そういえば何処へ向かっているのだろうか。
「狐狸の類いが化かすのと似ているな。惑わして遊ぶか、攫うか。或いは喰らうか。さほど違いはないが」
立ち止まる。
数歩遅れて同じように立ち止まる。
「ここだ」
突き当たり。木の格子の先に、誰かがいる。
「やぁ。よく来てくれたね」
四肢を鎖に繋がれ座敷牢に囚われた男が、美しい笑みを浮かべて此方を見ていた。
「格子戸を開けて入ってきてくれ。ご覧の通り俺は自分で動けないからね。ここまで膳を持ってきてくれないか」
膳。
言われて気づく。いつの間にか暖かな膳を手にしていた。
「怖くはないよ。さぁ、おいで」
促されて格子戸へと近づく。鍵は掛かっていないようだった。
膳を床に置き、格子戸に手を伸ばす。
つきり、と。
格子の縁のささくれが指を突き刺した。
「どうしたんだい。早く開けてくれないか」
座敷牢の中の誰かが声をかける。
それに何も答えずに格子戸から手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
座敷牢の中を見る。変わらず鎖に繋がれた男が一人。
そしてここまで案内をしていたはずの黒を身に纏う誰か。徐にフードを脱いで露わになったその顔は、繋がれた男と同じものだった。
「残念。あと少しだったのに」
「なんで」
溢れた疑問に返る声はない。
声なく、表情もなく此方を見つめる二対の眼に、思わず数歩後退った。
沈黙。静寂。
「…まぁ、いいか」
ふっ、と愉しげな笑みを浮かべ。
「ほら、さっさとお帰り」
ざらり、と鎖の音。
ぐにゃり、と視界が揺れて急速に色をなくしていく。
「またおいで。次こそは戸を開けて、此処から出してくれるとうれしいな」
囁く声を最後に、意識が落ちた。
20241029 『暗がりの中で』
10/29/2024, 3:47:30 PM