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「半袖」

「あら、今日は半袖じゃ寒いかもよ。それに夕方から雨だって。傘も持っていきなさい」
玄関に向かう私に母は言う。
「大丈夫」とは言ったものの差し出された折りたたみ傘はありがたく頂戴する。母が言うことのほとんどは正しい。けど、こんなに日差しがたっぷりなのだから、さすがに半袖でいいだろうと、そのまま「行ってきます」と家を出た。

午前中はちょうどよかった。窓際の席で朝のうちは少し日も差す。暖かい風も吹いている。雲行きが怪しくなったのは昼過ぎだ。5時間目の授業中、風の向きが変わった。薄く白い雲がかかっていた空には、いつの間にか灰色の雲が混じる。

放課後の掃除当番は化学室だ。理科棟に行く渡り廊下に出ると思わず体がブルっと震えた。寒い。朝よりも気温が下がっているみたいだ。みんなも「さむ〜」と言いながら手早く掃除を済ませる。

教室に戻るともう何人も残っていない。部活に行く人はとっくに行っている。私は華道部たけど今日の活動はない。急いで帰る用事もないので図書室に向かう。図書室には憧れの人がいるのだ。

いつも残って勉強している眼鏡の君だ。勝手にそう呼んでいるだけで、履いている上履きの色から3年生だということしかわからない。数学の教科書を開いていることが多い。しばらく考え込んだあと、糸口が見つかるとものすごい勢いでノートに書き込んでいる。一心不乱という言葉がぴったりのその様子を、少し離れたところから見ている。今日は珍しく上だけジャージを着ている。

見ているだけだと怪しまれるから、私も教科書を開く。英語の予習でもしておこう。ぱらぱらと辞書をめくるふりをしながら、眼鏡の君を盗み見る。今日も安定の一心不乱。

どこかから「雨が降ってきた」と言う声が聞こえる。その声に誘われるようにばたばたと席を立ち、帰る人が続出する。傘を持ってるから私は大丈夫。お母さんありがとう。眼鏡の君も帰っていない。同じ空間に少しでも長く一緒にいたい。ただそれだけのために閉室時間までねばる。

とうとう帰る時間になって席を立つ。かの君も手を止めて伸びをした。そのときうっかり目が合ってしまった。にこっと笑ってから荷物を片付け席を立った。私もあわてて出口に向かう。その「にこっ」にどれほどの威力があるか知らないでしょう?

急に胸が痛くなってどきどきが止まらなくなった。ぼーっとしたまま昇降口に行き靴を履き替えた。外に出た途端、風が吹き付けてきた。思わず身震いをして半袖で来たことを後悔した。でも仕方ない。カバンから傘を出して歩き始めた。校門に行くには3年の昇降口の前を通る。そこに立ちつくす眼鏡の君がいる。傘を持っていないのだろう。

声をかけるべきか、でも傘は一つしかない。どうする?考えているうちに、かの君の前に来てしまった。

えっ…自分の行動に驚いている。大胆にも傘をさしかけている。

「ありがとう」と、かの君がおっしゃる。
「いいよ、君が濡れるでしょ」
「え、駅まで一緒に入っていきませんか?」
「いいの?」
「はい」
「じゃあ」と、かの君はジャージを脱いで肩にかけてくれた。
「寒いでしよ。僕は長袖だから平気。どうぞ。あ、嫌ならいいよ。体育では着てないから汗はかいてないと思うけど」
嫌だなんてありえない。ふわっと眼鏡の君の匂いに包まれた。

そこから駅まで何を話したんだっけ?上の空でほとんど覚えていない。駅について同じ駅だとわかって、一緒に電車に乗って、改札口で「じゃあ、またね」とそれぞれの方向に分かれた。

「またね」とかの君は言った。必ず訪れるであろう「また」を思って、「西畑」と胸に刺繍されているジャージの袖を握りしめた。西畑俊吾。眼鏡の君の名だ。

5/29/2024, 1:58:25 AM