「不完全な僕」
人間、みな不完全なものだと誰かが言った。
僕だって、それには同意する。でも僕は、周りと比べて、あまりに不完全すぎるようだった。
物心ついたときから、自分は人と違っているという意識があった。毎日毎日、周りの人間がなにを考えているのか、想像もつかなくて。親でさえ、完全に安心できる相手ではなかった。孤独というのだとも、知らなかった。
「なあ、廉は好きなひといる?」
小学五年生の頃だっただろうか。下校中、不意に友達の雄太が聞いてきた。
「好きな人?お母さんとか?」
僕がそう答えると、彼は声をおおきくして言った。
「ちげーよ!!女子だよ女子!絶対いんだろ!?」
「いないよ」
本当だった。
「はあ?嘘つくなよ!好きな人教えねーならもう遊んでやんねーぞ!」
そう言うと彼は走っていってしまった。
結局、彼は翌日にはケロッと忘れていたようで、いつものようにドッジボールに誘ってきたのだが。
僕の心には大きなモヤモヤが残ったままだった。
好きな人がいることが普通で、そうでないことは信じてもらえない……。あまつさえ、嘘つきと呼ばれる……。
小学五年生という年齢は、まだ幼く、同時に性を意識しだすタイミングで、彼の発言もそのための若気の至りなのかもしれなかった。しかし、そのときの僕はそれがきっと常識で、普通なのだと受け取ってしまった。
好きな人……。そもそも僕には人を愛するという気持ちがわからなかった。親だって、友達だって、どうせいつか死ぬ、それが当たり前で、悲しむ理由もなくて、それまでの期間を一緒に過ごすだけ……。
これを昔、うっかり親に言ってしまったことがある。親は血相を変えて、なんてこと言うの、人の心はないのとまくし立てた。
それを聞いて、自分のことも、親のことも怖くなった。僕は、一生普通の心は持てないのかもしれない、それを知られてしまったから、親はバケモノでも見るような気持ちで僕に接するようになるかもしれない……。
親は幸い翌日には忘れたようだった。人の忘れるという機能にこれほど感謝したことはない。
これをきっかけに決めた。一生、普通を演じて生きることを。
本音が言えないのは辛い。でも、周りに差別されるのは怖い。もう、決めたことだ。
年月がたち、中学二年生になった。僕はもう、息をするように嘘をつけるようになっていた。それは、幼なじみの葵に対しても、例外ではなかった。
なのにあの日、本音が溢れてしまった。まるで縁ギリギリまで水の入ったコップから一滴の水が垂れるように、自然に。
「俺、人の心がないんだ」
金曜日、学校からの帰り道。深いオレンジに染まった、午後5時の空にポツリと呟いた。
隣を歩いていた葵が振り向く。
「え、どうしたの急に。これがウワサの中二病?」
茶化された。まあ、そんなもんだよな。
「なんてね、廉が上むいてちっちゃい声で話すときは、たいてい本気って知ってるよ。なんで、そう思ったの?」
柔らかい笑みをたたえて、優しく言われた。まるで聖なる光のような西日が彼女をつつんでいた。夕日が目に染みる。
「れ、廉?」
差し出された手にはハンカチ。あれ、泣いてた……?
そう自覚すると、せきを切ったように言葉が溢れ出してきた。
「俺、好きな人とか、わかんねえし、みんなみんな、どうせ死ぬっていったら、人の心がないって、いわれて、、相手へのおもいやりとかも、わかったことねえし、だいいち、ひとを、愛せない、かもしれない……こんな、バケモノ、みてーな、やつっ、嫌だよな……」
後半はもう、しゃくりあげるみたいで、自分でも何を言ってるかわからなくて、ただひとつわかったのは、葵が、真剣な目で、うんうんと、うなずいてくれたことだけだった。
だいぶ落ち着いてから、葵は言った。
「廉が好きな人とか、恋愛とかできないっていうの、おかしくないよ。ほら、同性愛者とか、いろんな恋愛する人がいるじゃん、そんな事言ってきた人がばかなだけだよ、廉は、そのままでいいよ、そのままの廉と、一緒にいたい」
葵の言葉が、ゆるゆると心に入ってくる。一気に喋りすぎて、何も言えなくなった僕の代わりに、葵は話を続けた。
「廉は自分のこと思いやりがないっていうけど……私は廉は優しいと思う。いつか、私が愛犬のたろーを亡くしてずっと泣いてたとき、ずっと隣にいてくれた。その後、いつもみたいに遊ぼうって言ってくれた。今でも覚えてる、大事な思い出」
「それはっ……それは、葵しか遊び相手がいなくて、つまらなかったからで……慰めたいとか、思えてなかったんだよ?そんなやつなんだよ、俺は」
「それでもいい。私は、嬉しかったよ、廉。普通じゃなくても私は好きだよ。私のこんな言葉じゃ、慰めにはならないかもしれないけど」
自信なさげに語尾を濁らせる彼女に思わず食い気味で言った。
「そんなことない!俺も、嬉しかった」
「よかった」
その後は、いつものように、並んで帰った。
ふと気付いた。
人前で泣いたのは、初めてだな……。
普通でなくても、どこか欠けていても。彼女のような人がいるなら、堂々と生きていていいのかもしれない。
夕日がどこか暖かく見えた。
8/31/2024, 11:04:03 AM