小学生の頃の話だ。私は同級生数人といつものように放課後集まって、タケルの家に遊びに来ていた。タケルの母さんはいつも麦茶とお菓子を出してくれるから、私たちは自然と入り浸るようになった。
今日のおやつはみんな大好きハッピーターンだ。お菓子をバリバリ食べながらゲームをやったり、取るに足らない話をしたりして盛り上がる。
「ねえ、天国ってあると思う?」
言い始めたのはトシだったと思う。その日の国語の授業で、死んだ人が天に昇るみたいな物語を読んだからだろう、そんな話になった。
「死んだら天国か地獄に行くんだろ? オレは信じないな。だって幽霊がいるってことじゃん」
タケルが持論を展開する。
「え、タケル、幽霊が怖いの」
その発言に、私はタケルをからかった。
「は、ちげーし、科学的にありえないってだけだし」
タケルはむきになって否定した。
「天国なんて存在しないよ」
熱を持たない声で割って入ったのはアスヤだった。みんながアスヤを振り返った。私の目に映ったその顔は、小学生ながら落ち着いていて、目の奥に確固たる信念を宿しているように見えた。
「天国もないし、幽霊もいない。人は死んだらそこで終わりなんだよ」
そう語るアスヤは大人びて見えて、それを聞くと私たちの疑問がひどく子どもっぽく見えた。
アスヤの家族は宗教を持たない家族だった。私はそのことを中学生になってから知った。アスヤの両親は有名な大学を出て、二人とも立派な会社に勤めていながら、アスヤにも愛情をたっぷり注いでいる、理想像を絵に描いたような家庭だ。そんな彼らに神は存在しない。
超常的なものにすがることなく、自分の力で努力をして、一度しかない人生で成長を重ねて生き抜くことが、人間のあるべき姿だと信じている。アスヤもその両親の影響を受けて育った。
アスヤをそんな風に解説する私はといえば、自覚はないけどたぶん仏教徒で、我が家のお墓は曹洞宗という宗派のお寺にある。亡くなった祖父の法事があればそこへ行って住職のお経を聞くというイベントが催される。でもクリスマスがあればみんなで盛り上がって、お正月には神社に初詣に行く。
たぶん日本人なら大半は私みたいなふわっとした宗教観で生きているんじゃないかと思っている。なんとなく神に祈ることもあって、来世に望みを託すこともあったりする。
アスヤを知らなかったら、私は「自分は無宗教です」と言うかもしれない。でもアスヤとその家族を知っている私は、自分の中に見えないものを信じる心があることを否が応でも自覚させられる。友達付き合いの中でアスヤと宗教観について話すことはないし、話したとしてお互いの価値観を咎めることはなかったけれど、アスヤの生き方には言い訳を持たない潔さがあったし、私はその生き方を羨ましく思っていた。
そしてアスヤは31歳で亡くなった。交通事故だった。常に己を磨き続け、大学を出てすぐに起業し、事業も軌道に乗り始めた矢先だった。高尚な彼の魂は天国にも行かず、虚空にも旅立たない。事故に遭った瞬間に消えてなくなったのだ。
葬儀は開かれた。アスヤの肉体が納められた棺の前に参列者は花を手向ける。棺の前には両親が立っていた。アスヤの母親は泣きじゃくっていた。
私は棺の前で花を手向け、両親の前に来ると「ご冥福を……」と言いかけた。しかし気づいて口を引き結び、何を言えばいいか考えた。しかし何も出てこなくて、深く一礼をして歩き出した。 ご両親も頭を下げてくれたと思う。
会場を後にしながら、定型句のように唱えられている言葉の意味の深さについて考えた。私は仏教徒なのだと気付かされた。そして思った。アスヤの父親は、あの母親の涙を和らげる言葉を持っているのだろうか。
会場を出ると小学校の同級生が集まっていた。せっかくなのでみんなでお清めをいただく。そうなれば当然、アスヤの小学生の頃の話になった。
「あの頃ってずっとタケルの家で遊んでたよな」
「ああ、いつもおやつもらえたしな」
「そういや、タケルの家で遊んでたときさ、アスヤだけ自分でおやつ持ってきてたときあったじゃん」
「ああ、あったあった。小粒のチョコレートのやつ。なんかさぁ『これは僕が持ってきたから僕のだからね』ってしきりに言ってたよな」
「あー覚えてる、言ってたな」
「でもあれ、最終的にみんなで食べてたよな」
「そうそう、結局優しいやつなんだよアスヤって。みんなに分けちゃうんだもん」
その日、アスヤの思い出話は尽きなかった。その時のことを、私は今でもときおり思い出している。
人にとって信仰とは、宗教とは。私にとってはよく考えるテーマです。日本人にはなじみは薄くて、「自分は〇〇教徒です」と自覚している人はどれくらいいるかわかりません。
じゃあ「自分は無宗教」と言えるのか。その疑問に立って書きました。みなさんにとって何かの参考になれば幸いです。
3/13/2025, 3:15:01 AM