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『夫婦』



「ねえ、いつ結婚してくれるの?」
 彼女はいつも俺にそう聞いてくる。もう何十回も、下手したら何百回も聞かれたかもしれない。
「そのうちな」
 いつも俺の返事は決まっている。毎回同じ台詞のやり取りをする。そのことに何の意味があるのか。

 俺にとってそれは、「おはよう」、「おやすみ」、「行ってきます」と「行ってらっしゃい」、「おかえり」と「ただいま」、それと同じように対になった台詞のように感じる。

 彼女は結婚したい理由を語らない。なぜなら彼女が結婚したいのは自分の意思ではないからだ。
「ママが早く結婚しろって言うから」
「おばあちゃんがひ孫が見たいって言ってる」
「同僚の嶋さんが結婚して中野さんになったから羨ましい」
 彼女の理由はいつも他人だ。
 俺はなにも彼女と結婚したくないわけじゃない。結婚するなら相手は彼女だと決めているし、彼女となら一生一緒にいられると思っている。だがいざ結婚となると急に現実味がなくなって、裸で真っ暗な中に立たされているような不安がある。

「お前のそれって、責任から逃げてるって言うんじゃないのか?」
 同僚に彼女がいつも結婚したいと言ってくると愚痴ると、そんな返答が返ってきた。同僚のこの男の左手薬指には銀色の指輪が光っている。こいつはどうやって、婚姻届を書こうと決意したのか?
 俺にはまだ婚姻届にサインをする勇気がない。結婚とは相手を支えなければならない。相手の人生も背負わなければならない。その一歩がどうしても踏み出せないんだ。
 同棲している今の生活と何が変わるのか分からない。婿養子にでも入るのならば、苗字が変わったり住まいが変わったりするんだろう。しかし、結婚してもお互いの実家に住むつもりはない。このままこの部屋で暮らすつもりだ。引っ越しも転職も考えていない。
 今の生活と何ら変わりはないのだが、何かが引っ掛かるんだ。その何かが分からないうちはきっと一歩も踏み出せない。

「ねえ、別れよっか。あたし結婚したいの。結婚しないならあなたと付き合っているのは時間の無駄だと思う」
 いつもの結婚の催促かと思ったら、思いがけない彼女からの言葉に、動揺して手が震えた。
「は? 結婚しないとは言ってないだろ?」
 俺の声は震えていないだろうか? 当たり前だと思っていたこの関係が崩れてしまうことがあるのだと知った。そんなことは分かっていたはずだった。俺たちは口約束だけでこうして一緒に生活をしている。契約などないし、書類もない。結婚したからと言って、離婚という未来がないわけではないが、やはり書類を書き、公的に認められた契約とは違う。

 一歩がとても重いが、踏み出さなければいけない状況だ。
「分かった、結婚しよう」
「本当?」
そこから結婚するまでは実に早かった。何度もシミュレーションしたのかと思うほど彼女の手際はよく、顔合わせから戸籍謄本の準備、婚姻届の用意に名義変更の手続きまで、すぐに終わった。

 そういえばプロポーズをしなかった。指輪はネットで一緒に選んで買った。
 婚姻届だって、物が散乱した俺たちの部屋は、机の上が汚いから婚姻届が汚れそうという理由で、フローリングの床に這いつくばって書いた。結婚ってこんなもんなんだな。

 俺たちは結婚式はしなかった。ドレスとタキシードをレンタルして、フォトウエディングってことで一枚だけ写真館で写真を撮ってもらった。ただそれだけで結婚できてしまったんだ。こうして俺たちは夫婦になった。
 日々の生活は何も変わらなかった。いつもと同じ時間に起きて、いつも通りに仕事をして、帰宅すると早く帰った方が料理をしたりする。何も変わらなかった。
 結婚に夢があったわけではないが、一歩が踏み出せなかった自分は何だったのかと、呆気に取られるほど何も変わらなかった。
 変わったのは、左手の薬指に銀色の指輪が嵌められていることくらいだ。

「ねえ、安田さん専業主婦になるんだって」
「そうなんだ」
「だからあたしも専業主婦になりたい」
「は? じゃあ家事全部やって部屋も片付けてくれんの? 今より贅沢できなくなるぞ?」
「ママも専業主婦だし大丈夫じゃない? もう退職願出しちゃったし。来週で退社なんだ〜」
 妻はやっぱり自分の意思はなく他人が基準だ。

 俺はそれを恐れていたのだと今やっと分かった。なぜ結婚する前に気づけなかったのか。
 結婚が怖かったんじゃない。気まぐれで、隣の青い芝ばかり見ている妻が怖かったんだ。

 俺の想いは急激に冷めていった。人として酷いのかもしれない。自分の稼ぎは二人を支えられるほど多くない。甲斐性なしと言われればそうだ。俺の稼ぎが多ければ、こんなことで悩むことはなかったのかもしれない。結婚式をしなかった理由も金がないからだ。子どもを作っても育てる余裕がないから、避妊だけはしっかりしていた。

「考え直してくれないか? 俺の稼ぎだけでは二人で食っていけない」
「大丈夫だって。あたし節約するし、無駄遣いしないし」
 一体何の根拠があって言っているのか分からなかった。俺は奨学金の支払いが終わっていないし、施設に預けている母親の施設代は兄貴と半分ずつ出している。
 今までは家賃を折半していたからこの部屋に住めた。光熱費は俺が払っていたが、これからは家賃を全額俺の給料から支払うことになる。それだけではない。妻の携帯代や妻が使う化粧品、二ヶ月に一度行く美容院や、洋服代も……
 軽く計算しただけで頭痛がした。昼はおにぎりでも持っていけば浮く。一日千円として二十日分で二万。それを家賃の足しにして、それでも足りない。切り詰めれば何とかなるのか?
 危ない橋だが、もう妻の退職は決まっているようだしどうしようもない。金が欲しければバイトかパートでもするだろうと俺は了承した。

「ねえ、友達とご飯行きたいからお金ちょうだい」
「は? 外食するのか? 俺だって外食してないのに」
「しょうがないじゃん。暇なのに断れないし」
「貯金は?」
「そんなの無いよ。この前美容院行ったらなくなった」
 俺はカラーなどせず千円カットなのに、妻はいちいちカラーリングし、トリートメントまでして、スタイリストカットとかいうお高いスタイリストという人にカットしてもらっている。カラーをやめれば、トリートメントをやめれば、友達と外食できたはずだ。喉元まで出かかった言葉を飲み込み、俺は妻に二千円を渡した。

「なあ、俺のグッチの名刺入れ知らないか? 取引先の担当者が変わるとかで挨拶に来るんだよ」
「あれ、使ってたの? お金足りなくなったから売ったよ」
「そう……」

 俺の中で何かが壊れた。亡き父が、就職祝いにと買ってくれた名刺入れ。その話はかなり昔だが妻にもしたはずだ。これは父親の形見なんだと。
 夫婦ってなんだ? 結婚って何だ? 俺は何をしているんだ?
 夜中、俺は通勤用の鞄と財布、通帳と替えのスーツ、スマホを持って家を出た。もう限界だった。朝になるとスマホの電源を一度だけ入れ、会社の電話番号をメモするとまた電源を切った。

「もしもし、生きる希望がなくなりました。申し訳ありませんが今日は休みます」
 俺は公衆電話から会社に電話をかけた。そして電車に乗った。海の近くの母さんの施設がある駅で降りると、携帯ショップでスマホを解約し、そのままスマホは引き取ってもらった。
 小さな役場で離婚届をもらい、自分のところにサインすると、あの部屋の住所を書いた封筒に入れた。

 夫婦ってなんなんだ? 俺はどこで間違った?
 俺は必死に何を守ろうとしていたんだ?

「母さん、俺は結婚に失敗しました」
 言葉にすると涙が出た。
「あら初めまして。あなた暗い顔をしてどうしたの? 失敗なんて誰でもするわよ。あなたは若いんだから次頑張りなさい」
 もう母さんは俺のことを息子だと認識できない。いつも「初めまして」と言う。だけど、今日はそれでよかった。

 次か。そうだな。次は失敗しないように頑張ろう。でも、もう結婚はしたくない。
 世の中の夫婦は、幸せな夫婦だけではない。俺と妻のように夫婦に向かない人もいるんだ。

 仕方ない。帰って妻に離婚の話をするか……

「ごめんなさい。勝手に売って。これ、返してもらってきたの」
 帰宅すると妻は俺に頭を下げて、震える手で見慣れたグッチの名刺入れを差し出してきた。

「離婚してほしい。経済的にももう無理なんだ」
「わがままばかり言ってごめんなさい。私も働くから。少しだけ猶予をください」
 妻はこんな俺とまだ結婚生活を続ける気か? 貧困で何も買えないし、何もいいことなどないのに。

「何でだ? 俺なんかと一緒にいても苦労するだけだろ」
「そんなことない。好きだから一緒にいたい。夫婦だから、どっちか片方だけが頑張るなんて間違ってた。お互い支え合って、これからは生きていきたい」
 妻がそんなことを考えていたなんて知らなかった。生きる希望がなくなったと思っていたが、小さな光りが灯った。

「うん。わかった」

 次は失敗しないように頑張ると決めていた。次は今から始まる。俺たちは、やっと夫婦としての一歩を踏み出した。



(完)

11/22/2024, 3:27:14 PM