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いつだったか、子どもたちを公園で遊ばせていたときのことだ。保育園のお母さん仲間であり、子どもたちの主治医であり、夫は牧師で自身もキリスト教を信じている人と話をしたことがあった。子どもたちはブランコに乗ったり、駆け回ったりしていた。

その人はキリストの原罪ということを話していた。毎日ご飯を食べるのと同じように、当たり前に原罪を信じ、それによって心は平らかであると。キリストは私たちの罪を全部引き受けてくださったと晴れ晴れとした表情でそう言った。その時の彼女の顔があまりにも幸せそうだったから、ああ、そうかと私までそんな気になった。私の罪も同じように引き受けてくださるのだと、ちょっと感動さえした。

実家は浄土真宗の檀家である。年末にはお餅を納める習慣があった。年末に帰省していたとき、子どもが小さかったころのことだ。お餅を持っていくと、御院さんは歎異抄の本をくださった。子どものころはお寺の日曜学校に行き、よく知っていたからくださったのであろう。大きくなったねという気持ちもこめて。

衝撃だった。他力本願、悪人正機がスパーンと私を撃ち抜いた。阿弥陀仏の本願に私も救われると、頭ではなく、魂が共鳴したというべきか、よくわからない感覚に陥った。

今もその感覚は生きている。キリストの原罪、阿弥陀仏の本願、それは違う宗教なのであるが、私の心には同じように作用する。もちろん、キリスト教に入信はしないし、念仏を唱えることもない。心の奥深く、体でいえば丹田のあたりにその感覚が、漬物石のようにどっしりと巣食っている。

親鸞は逃れがたい煩悩にまみれる自分自身と向き合い浄土真宗にたどり着いた。たどり着いてもまだ迷うのだ。

キリストの原罪を語った彼女も、でも、日々の悩みはつきないんたけどね、と話を終える。

近代を経過した時代に生きている私には、宗教にすべてを委ねることはできないし、かといって、能天気に自分自身を考えずに生きることもできない。けれども、丹田にすわった感覚は折々に自分自身を助けるのだ。

誰もが決して逃れられない死がやってくる瞬間、どんな境地に立っているのか、怖いというよりも楽しみではある。周りに迷惑をかけながら七転八倒しているかもしれない。それもまた、逃れられない人間の性。

5/23/2024, 12:35:56 PM