【些細なことから】
街を歩いていると、スマホのバッテリーが切れてしまったことに気づいた。地図アプリも使えず、方向感覚が鈍い自分はすぐに道に迷った。辺りを見回すと、見慣れない通りに差し掛かり、ひときわ目立つ古びた看板のカフェが目に入った。
「休憩しようか……」
自分に言い聞かせるようにカフェのドアを押すと、中は外観とは対照的に落ち着いた雰囲気だった。ほのかなコーヒーの香りと、静かな音楽が心をほぐしてくれる。カウンターにいた店主が、にこやかに「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。
「迷っちゃったみたいで、少し休ませてもらいます」
「どうぞ、こちらへ。疲れているようですね」
お薦めのコーヒーを注文し、窓際の席に座る。外の景色を眺めながら、温かいコーヒーを口にすると、心が安らいでいくのがわかる。店主がコーヒーカップを置きに来たとき、彼と少し会話を交わした。
「落ち着く店ですね。ここに来るまで迷ったのも悪くなかったかも」
「そう言ってもらえると嬉しいです。迷いは時に、思いがけない出会いをもたらしますからね」
店主は穏やかな笑顔を浮かべていた。その笑顔にどこか見覚えがあるような気がしたが、思い出せない。ふと気になり、話題を変えた。
「このカフェ、いつからやってるんですか?」
「もう、かれこれ20年になります。静かな場所が好きで、ここでのんびり過ごすのが私の日課です」
その言葉を聞いて、店主の声と姿がようやく一致した。彼は、かつて自分が夢中で読んだ小説の作家だったのだ。驚きと喜びで胸がいっぱいになり、サインをもらいたくなったが、持ち物を探しても何もない。スマホも使えず、結局お願いできなかった。
しかし、店主との会話が続くうちに、彼が話してくれた一つのエピソードが自分の中で新しいアイデアに変わり始めた。迷った末にたどり着いたこのカフェでのひとときが、自分に新たなインスピレーションを与えてくれたのだ。
「迷いも悪くないですね。おかげで良いアイデアが浮かびました」
店主は微笑んでうなずいた。「そうでしょう?時には道に迷うことも、人生の一部なんです」
カフェを後にする時、店主に一言お礼を言い、再び迷いながらも新しい気持ちで歩き出した。道に迷うことは決して悪いことではなく、むしろ思いもよらない出会いや発見をもたらすのだと実感しながら。
後日、そのアイデアが職場で採用され、大きな成功を収めた。しかし、あの時の店主に感謝の気持ちを伝えに行こうと再びカフェを訪れたが、その店は跡形もなく、まるで最初から存在しなかったかのようだった。まるで夢の中の出来事のように。
それでも、あのカフェでの出来事が自分にとってどれほど大きな意味を持っていたか、心の中でいつまでも忘れることはなかった。迷いが導いた出会いが、自分の人生に新たな光をもたらしたのだ。
9/3/2024, 10:49:22 AM