【欲望】それは奇蹟か絶望か
町外れの小さな教会。ポツポツと立ち並ぶ個人邸宅のその向こう、いささか辺鄙な、バスの停留所の終点から一ついった場所に、それはあった。周囲は森に囲まれているが、農園地帯よりは都市部に近い。そんな場所だ。
バスから降りてきた幼年の子供達が、駆け足に教会へ入っていく。
「神父様ただいま!」
「おかえり、学校はどうでしたか」
「楽しいよ! 友達できた!」
「ねえホームワーク終わったら遊びに行っていい?」
神父は柔和に微笑み、「ちゃんとやったらいいですよ」と頷いていた。
月に一度。神父は街へ行く。持ち周りで留置所にいる人間のために働いているのだ。それなりの規模の警察オフィスの中にある留置所では、罪の軽重に関わらず、多くの容疑者達が収容されている。彼らの祈りのために、神父はそこに向かう。周辺のプロテスタント教会も曜日をずらして訪れているが、毎度収容されている顔ぶれは違っていた。
神父は希望者のために個室のついたバンで乗り付け、彼らの話をじっくりと聞いた。時間制限があるので、窓がノックされたら終了間際である。
泣いて神父の手に縋るもの、怒りをぶつけるもの、ひたすら懺悔するもの、何が悪かったのかと苦悩するもの。
それらの話を聞き終わると、神父はその日は教会に帰らず、街で宿をとっていた。
宿は、うらぶれた路地にあった。かつては何かしらで栄えていたらしいということが、すっかり紫外線にやられて白茶けた看板や、見る影もなくボロボロになった庇テント、幾重にも貼られていた形跡の残るレンガ壁に見て取れる。酔っ払いがビール瓶を抱えて寝こけているのを、起こさないように通り過ぎて、神父は古びた宿にやってきた。コンクリートの建物、小綺麗なロビー、宿の主人は「どうもどうも」と穏やかに迎え入れる。場所は悪いが、この辺りでは価格の割に良いと言える宿だった。
「今日もいつもの角部屋ですね」
「すみません、毎度わがままを」
「いえいえ、毎月必ず部屋が一つ埋まるってのはありがたいモンで」
にこにこしながら代金と鍵を交換してくれる宿の主人に、神父は少し後ろめたい気持ちになった。それでも勤めて明るく、「では、お部屋をお借りします」と言って、そのまま三階の角部屋へ向かう。
ツインの部屋で、一人ベッドに座り込む。カソックを脱いで、ワイシャツ姿になる。黒いシャツは少しごわついていて、ホテルのライトにもうっすらと凹凸を浮かび上がらせていた。
コンコンコン、とノックがある。
「どうぞ」
と、神父が声をかけると、外から浅黒い肌をした男が入ってきた。笑顔は笑顔なのだが、そこに凄みがある。書き上げた茶色い髪の毛に、コメカミの大きな傷。どう見ても堅気の人間ではなかった。その彼は、大きなトランクを神父の前の床に置く。
「どうも。毎月お世話んなってます」
「いえ……こちらこそ」
神父は静かに目を伏せた。それから胸ポケットに入っていた封筒を渡す。男は中身をあらためて、小さく頷いた。
「はい、確かにどうも」
そしてトランクが開かれた。二重になったその中に、真空パックに詰められた肉が入っている。それを見た途端、神父の喉がぐびり、と動いた。
「準備しますんでね、ちょっと待っててくださいね」
トランクの中には、他にもブルーのビニールシートや大きな皿があった。シートを床に敷き、皿をおいて、その上に、袋から取り出された肉が乗った。まだ血の滴るような肉がべちゃりと落ちる。人の拳ほどの大きさもあるだろうか、見るものが見れば、それが牛のものであるとわかるだろう。
神父の息が上がっていた。左手の指が右手の手首に食い込むほど、強く握られている。
「傷」
と、浅黒い男がその指に触れた。
「俺しかいないんだから、無理なく」
下唇を噛んで、ふぅ、ふぅ、と鼻息を漏らす神父の様子を見て、男は目を細めていた。
「いいんですよ、ほら」
男がそう言うや否や、神父は生肉に飛びついていた。慎ましやかで落ち着いた声を吐く口が、大きく開かれて肉にむしゃぶりついている。血が飛ぼうが汁が跳ねようが、お構いなしに喰らいつき、そのためには発達していない歯で器用に肉をむしっては、さほどの咀嚼もせずに飲み込んでいく。
「水も用意しとくんでね」
と、隣に深めの水の皿を置いてやりながら、浅黒い男は神父の姿をじっくりと眺めていた。
彼と知り合ったのは留置所でのことだった。暇つぶしに懺悔室の利用を申し出て、今日は人が少ないし、最後の一人だから、とわずかながら雑談に応じてくれたのがこの神父だった。知らぬ間にマフィアの手先になってしまっていた彼にとって、謂れのないレッテルを見ずに話してくれたことだけでも随分救われたものだ。その彼が、月に一度留置所に来ると知って、釈放後、留置所の出口で待ち伏せたのだ。ただ彼を知ってみたかっただけだった。
その時に、食事を断られた。何度かそうしているうちに、彼が少し遠くのチャイナタウンに通ってることを知った。つけていったのだ。そこで提供されている焼肉の肉を、ひっそりとほとんど生で食べているのを見た。そのことを彼に話してみたのだ。それは単に、健康に悪いんじゃないかとか、そう言うつもりで。
「……信じて、もらえないかもしれないけれど」
と、彼は苦しそうに呟いた。
「二十歳になった次の月のミサで……聖体を、食べた時に、それが生の肉に変わって」
それが嘘か本当かなどは、浅黒い男にはわからなかった。
「それで、その……そのあとは、どんなお肉をいただいても満足できなくて。こっそり調理用の肉を調理前に食べてみたんです。……満たされて、しまって」
何が、ということは聞かなかったが、それ以降彼はそれをする場所や機会を探していたらしい。チャイナタウンに来ているのは、単純に自身の教会から遠いからのようだった。
「なぁ、神父さん」
と、気がついた時には口をついていた。
「俺が手配してやろうか、それ」
野良犬の方がまだ行儀がいいのではないかと言うくらい、周囲に血や肉片を飛び散らせている神父を見下ろす。彼のこんな姿を見ているのが、自分だけだと言う仄暗い喜びを、持ってきた缶ビールでぐっと飲み下した。
3/2/2026, 1:45:55 AM