飽和人

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影踏み鬼という遊びがある。友だちを何人か集めてやった人も多数いるんじゃなかろうか。でも私はあの遊びがあんまり好きじゃなかった。手で触れられることもなく、自覚すらもできないうちに鬼に捕まるんだっていう漠然とした恐怖が幼い私を包み込んでいたのだ。氷鬼や色鬼とかはみんなとワイワイはしゃぎながら逃げ回ったり、反対に捕まえる鬼側に回ったり、それなりに楽しかったような気がするのだけども。

人には影がある。物理的にも、今向き合っている人の内心にも、もちろん私の中にも、見せたいとは思えない、暗い何かがあるのだ。そう思うようになるまでの過程はたくさんあったけれど、最初のきっかけになったのは小学生の頃だろう。

当時、 私を含めた仲良し四人組はいつも一緒にいた。どうやらこれからもずっと、四人で仲良く過ごすんだろうなと、そう心から信じていたのは私だけだったようで。グループ内の一人が委員会の仕事か何かで、ドアから出ていくのを目で追っていた。でもその子の姿が見えなくなった途端、先程の、花が咲くような暖かい空気はどこへ行ったのやら。唐突に、別の子から今その場に不在の彼女への悪口が飛び出してきた。身を強ばらせた私に気が付かなかったのか、少なくとも不満を感じていたのか、もう一人の子が便乗するような形で、仕事に向かった彼女への愚痴を口にした。何も言えない私と、目の前で陰口を飛び交わせ、時々顔に嘲笑を浮かべる二人。初めて人の裏面を見た。今でなお、心臓が丸ごと凍りついてしまったような、あの冷たい感覚が忘れられない。まだこの一件だけなら、寝て起きたら元通りという夢を見たままでいられたような気はする。でもこの時のような嫌な光景は、学年が上がってなお、ましてや中学生になっても見る羽目になるとは予想もしておらず、すっかり人に恐怖するようになってしまった。

高校生になった今、ある程度はみんなどこか寛容になったのか、それとも理性が働くようになったのかは分からないが、表立って陰口を言うようなことも、相手への不満を示唆するような様子は見られなかった。でも未だに、自分でも気づかないうちに相手の期限を損ねたりしていないかとか、不満や鬱憤となる何かを抱えられているんじゃないかと、不安になった。心のどこかで常に人を疑っている自分がいた。私が抱えている暗い部分、すなわち人間不信な自分の姿なんて、誰にも気が付かれたくない。それに私だって誰かの暗い部分に気が付きたくはない、そして目にしたくはない。これから先も人から目を逸らし続ける日々を送るであろう私が容易に想像できた。どこか虚しさを感じる未来図を頭の中で描いた時、私はいったいどんな表情をしていたのだろうか。

不思議な形をした影が白いスクリーンの上で動き出す。吊るされた白い幕の裏には、棒で動かすことのできる切り絵を持った人が何人か、前には光源となっているプロジェクターが置いてある台が設置されていた。BGMが流れ終わり、部屋全体が明るくなる。パチパチと私の拍手の音だけが空間に鳴り響いた。
「ご観劇、ありがとございました!」
スクリーンの後ろから出てきた人たちがきれいなお辞儀をする。
「すごい。」
きれいだ、と続けて言おうとした言葉は咄嗟に飲み込んでしまった。感嘆するってこういうことなんだと思いながら、あれだけ恐怖の象徴として捉えていた影を、美しいと感じている自分がいることに驚きを隠せなかった。

元の話をたどると、高校入学後にできた、美術館巡りが趣味だというトモダチ。一週間前にぜひ一緒にと誘われて、断ってから後々面倒くさそうなことになるのも嫌で、何気なく訪れた影絵の美術館。でもいざ入場してみると、私の知らなかった世界が私の目を奪いに来た。影絵の歴史や、影絵の展示。中にはステンドグラスのように透き通った色を付けた展示品もあって、私は幼い子どものように心を踊らせていた。

数々の解説や様々な作品を思い返していると、人型の、帽子をかぶったキャラクターの切り絵を持っている女性が、私に向かって優しく微笑みかけた。
「ふふ、楽しんでいただけたのであれば私たちとしても嬉しい限りです。お子様連れのお客様も多い中、あなたのような学生さんが観覧してくださる機会はそうそうないですから。」
「いえ、あの、こちらこそ素敵な上演を拝見させてもらって、ありがとうございます。」
咄嗟のことに頭が回らず、ごちゃごちゃとした言葉で返事してしまったが、女性の表情は穏やかなままだった。
「でも、良かったです。あなたがこの部屋に訪れた時に、どこか浮かない顔をしていたような気がしまして...。」
そこまで発言してからハッとしたのか、すみません、と申し訳なさそうな顔で謝罪を述べた彼女に少し罪悪感が沸いた。普段から周りの様子を窺いながら、空気を読んだ行動、表情を浮かべていた私は口端が引き攣るのを感じた。
「いえ、その、もともと怖いと思っていたものを美しいなって感じることができて、私としてはいい機会だったと言いますか...。」
焦っていたからだろうか。本来なら誰にも言うつものない重大な告白が、私がずっと抱え込んでいた秘密が口から零れ落ちてしまった。
「...怖い?あっ、失礼ですが、もしかして暗所恐怖症だったり...。」
「ち、違います。その...私、影がずっと怖いものだと思いながら過ごしてきたんです。」
蛇口がぶっ壊れたみたいに、言葉が滑り落ちていく。心臓が大きな音を立てる。いきなりこんなひとりよがりな気持ちを聞かされて、私の目の前に佇んでいる人たちが、どんな視線を私に向けるのか。怖くて顔を上げられない。
「えっと、今日初めて見た影絵は、すっごくきれいでした。人が太陽に照らされた時にできる物理的な影も、怖いわけじゃなくって...。」
もう何に言い訳をしようとしているのかすら、自分でも分からなくなっていた。勢い余って、目を前に向けた。でも、私の目に入った人たちは、私の最悪の予想を裏切って、冷たい表情になるわけでもなく、おかしなものを見るような目をするわけでもなく、真一文字に結んだ口を、真剣さを携えた瞳で私を捉えているだけだった。冷水をかけらたのとは違う、なんとも言い難い別の何かが、私の頭を冷静にしてくれていた。
「...みんな、心の内面に、影を抱えているんです。もちろん、人によって抱えている大きさだったり、何かしらの差異があったりするんだろうなって考えてはいます。でも、影が、私の知らないところで向けられていたり、別の誰かに向けられいるんじゃないかって思うと、怖いんです。...本当なら、ずっと、気が付かないままでいたかったんです。ただただ純粋で、明るくて、暖かさだけがある場所に、ずっとずっといたかっただけなんです...。」
熱を持った涙が、私の頬を伝った。誰にも打ち明けることのなかった、私だけの恐怖。誰かを信頼して、少しでも心を許せるかもと思ってしまったら、全部を言い切ってしまうような気がしたから。そうしたら、良くて苦笑い、大体の場合は困惑の目を向けられてしまうだろうなって予想ができたから。

すっと伸ばされた手に握られたハンカチが、私の涙を吸い取った。えっ、と思って目を開くと、優しい表情を浮かべた彼女が。でも瞳は私のことを真っ直ぐと見すえたまま、口を開く。
「...完全にとは言えないけれど、分かるよ、私にも。あなたが感じている影との怖さと、影を抱えてしまう、誰かさんの気持ちも。」
「...分かるん、ですか?私も、他の人のことも...?」
なんというか、思ってもいない形でも裏切られたような、不思議な感じがして、聞き返してしまった。
「うん。今、あなたが気づかせてくれたっていうのもあるけど...。あなたが言ったように、大なり小なり、みんな心のどこかで暗い気持ちを抱えているの。時には言葉でできた凶器として形に出してしまう人もいる。あなたみたいに抱え込もうとする人もいる。...私もね、学生の時に誰かを羨んだり、嫉妬したことがなかったわけではないの。どうして、あの子はあんなにも可愛いんだろうとか、頑張っても、他の子みたいに点数が取れないのはどなぜなんだろうとか。...だからこそかな、他の人のいいところ-光に目を向けるのが難しくなっちゃうの。」
「-光、ですか?」
光、と言われた瞬間、私の中に小さな衝撃が走った。確かに、影もあれば、光があってもおかしくはない。
「そう。人の光ってね、明るくてキラキラ輝いているの。でも、目を背けたくなるぐらい、眩しいの。一回見てしまったらもう、自分と比較せずにはいられなくなって、自分の持っていない光を、あの子は持っているんだって認めざるを得なくなっちゃうから。...そうなる前にね、みんな、光を影で覆っちゃおうとするの。」
最後の、呟くように絞り出した一言にハッとさせられた。光を影で-他の人のいいところを認めてしまったら、自分の影に気づいてしまうから。影を持っているっていうことに耐えられなくなってしまうから。でも反対に言えば、ずっと影だけを見ていれば、影で光を隠してしまえば、同じような影を抱えた人に出会ってしまったら、この子に光はない、私と同じだっていう、ほの暗い安心感を感じるから。
「だから、この事実を逆手にとるの。一縷の光を見出して、影を照らす。照らした影の中に、隠れてしまった小さな光を見つけ出すの。...影絵でも同じことが言えると思う。スクリーンを光で照らして、影を-シルエットの中から表現できる美しさを見出すの。」
影の中に、光を。そんな考え方したことも、しようとしたことすらなかった。この私に語りかけてくれた眼前の人の思いを、全部受け入れられるわけではないけれど、少しだけ、重荷が軽くなったような気がした。
「...ありがとう、ございます。私の話を聞いてくれて、受け入れてくれて。-光の存在に気がつかせてくれて、ありがとうございました...。」
この女の人の考え方は、私を少し楽にしてくれた。
「...こちらこそ。影があるっていう当たり前のことに気が付かせてくれて、ありがとうね。あと、影絵を美しいって思ってくれたことにも感謝してる。-また、見に来てね。」

「ふ〜、見たいもの見れて大満足!いやぁ、ありがとうねぇ本当に。私、遊びに行くことはあっても、自分の行きたいところに誰かを誘うのは初めてだったから...。」
あの後、私は友だちと合流して美術館から帰る道のりを二人で歩いていた。
「ううん、こちらこそ、誘ってくれてありがとう。こういう展示とか、今まで縁がなかったけど、作品とか見るの、新鮮で楽しかったから。」
素直にお礼を告げる。そもそも、今私の隣にいる友だちが誘ってくれなかったら、私は光に気が付かないまま、日々を過ごしていくことに慣れてしまっただろうから。
「えっ、そんなお礼言われるなんて思ってなかったから、めちゃくちゃ嬉しい...!駅に貼ってあるフライヤーよく見てたでしょ?だから私、一番興味ありそうなものがある場所に、お出かけしたいなあって思って...。」
「えっ?」
「ん?」
私が声を上げると同時にお互いの目が合う。
「...もしかして、私が行きたそうにしてたと思って誘ってくれたの?」
「うん、そのつもりだったけど...。もしかして違った...?」
「...ううん、私もね、一緒に遊びにいったり、お出かけしたりしたかったの。事実、今日はめいいっぱい楽しんだから...。」
早速、この子の『人をよく見ている』っていういいところを、光を見つけることができた。夕日に照らされてできた影は、思ってた程怖なくなっていた。



4/20/2025, 12:11:43 PM