死んでしまいたいと思った時脳裏を過ぎるのは彼のことだった。
世界でただ一人、私のことを想ってくれる、あの人。
心に微塵の曇りもない、綺麗な人。まっさらな瞳が私に向いている、あの瞬間がたまらなく好きだった。健康的な肌色に触れ、その温もりに顔を埋めたあの時間がどうしようもなく愛しく思えた。
もう全部なかったことにしてしまいたくて、ベランダに立つとき、夜風が染みて酷く痛い。真下の奈落で楽になった人たちが踊っている気がして、私も早くそうなりたくて、サンダルを脱いだ。どうして、飛び降りようとするとき人はこう決まって靴を脱ぐんだろう、なんてこの期に及んで野暮なことを考える。ある意味覚悟を示すためなんだろうと、そんな気がした。もう、私はこの地を、この世界を歩かないのだという。そんな決意。決意とか、そんな高尚なものにはできっこないか、と独り笑う。どうしようもなく笑えて、震える。もう、ここにいる意味なんてなかった。
さらに一歩、踏み出そうとしたとき、あの人のことを思い出した。綺麗な瞳の、その深さに酔った、あの日々のことを思い起こす。まだ、手放したくない、強くそう思った。
まだ好きなんだ。あの人のことが。
希死念慮を打ち消してしまえるほどの愛に、私は溺れてしまってるんだ。そう分かった。
アスファルトの床に崩れ落ちる。
まだ死ねない、泣きながら、あの人を想った。
*
翌日、あの人のマンションを訪ねた。彼は快く出迎えてくれた。コーヒー淹れてくるよ、彼がそう言って綺麗に笑い、私に背を向けたとき、立ち上がってナイフで背中を刺した。彼は驚愕の表情をこちらに向け、よろめいた。ナイフを抜いてもう一度、突き刺す。何度も、何度も、突き刺す。
彼は倒れた。浅い息をして、それでもまだ今の状況を把握しきれていないのか、呟く。
「どう……して」
どうしてって……
「心残りだからよ」
言葉が口を衝く。
貴方さえいなければ、死ねるんだから。この世界に未練はなくなるんだから。もう、嫌なの。やめたいの。だから、お願い。あんたも死んで。
真っ黒に染まった背中を煌めく銀色で、何度も、何度も、この世界が無価値なものになるまで、滅多刺しにした。
11/9/2024, 3:20:22 PM