濃霧

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【さあ行こう】


目の前の男は、「さあ行こう!」と言って手を差し伸べてきた。
俺は戸惑いながらも、その手を取った。

記憶が曖昧だ。気がついたときには、白い部屋の中に立っていた。壁も天井も床も、何もかもが無機質で真っ白。なのに寒くも暑くもない。不思議な空間だった。

「君は名前を覚えているかい?」

男の声は穏やかだった。40代くらいだろうか、灰色のスーツに身を包み、どこか古い探偵のような雰囲気を持っていた。

「……名前は、わかりません。でも、何か大切なことをしようとしていた気がします」

「それでいい。それで十分だ」

男はにこりと笑った。
「ここは“通過点”だ。君は何かを思い出すために、いくつかの謎を解く必要がある」

「謎?」

「そう。君自身に関する謎だ」



最初の部屋には、一枚の紙が落ちていた。

“4つの時を越えし者、最後の鍵を握る。”

部屋の隅には、4つの時計。午前3時、午後12時、午後9時、午前6時を指していた。
壁の中央には、キーパッドがあり、数字を4桁入力する仕組みだ。

「この時計……何か意味が?」

男は首を振った。

「ヒントは、君の記憶の中にあるはずだよ」



記憶はぼんやりとしていた。
でも、その4つの時刻を見て、ふと小学生の頃の母親の言葉がよみがえった。

「3時のおやつ、12時のお昼、9時の寝る時間、6時の起きる時間よ。生活はリズムが大事なのよ」

あの言葉だ。あれは日常の記憶だ。じゃあ、それぞれの時間を24時間表記にしてみよう。
3時 → 03、12時 → 12、21時 → 21、6時 → 06。

順番に並べると?

いや、いや、違う。ヒントは「時を越えし者」――つまり「過去から未来へ」という順番だ。ならば:

6(起床) → 12(昼) → 15(おやつ) → 21(就寝)

待て、それだと時刻が違う。最初の時計は3時、つまり15時。順番に並べると:

06(起床)、12(昼)、15(おやつ)、21(寝る)

→ 06121521

いや、でもキーパッドは「4桁」だ。ならば、この中から導き出すのは…

それぞれの時刻を足す?

06 + 12 + 15 + 21 = 54

いや、それも違う。

……4つの時。4つの時=時刻の「時」の数字だ。

3 → 12 → 9 → 6
→ 3 12 9 6

もしこれを逆にして「最後の鍵を握る」=最後を先頭に?

6 9 12 3

→ 069123?

多すぎる。

……待てよ。「最後の鍵」って、最後の時刻が「6時」だ。6に注目する?

「4つの時を越えし者」とは……「日常」そのものか?

そのとき、思い出した。

最後に聞いた言葉。
事故の瞬間、助手席の誰かが叫んだ。

「……さあ、行こう!」

あれは……妹の声だった。



「君は、亡くなっているんだ」

男は言った。

「君は事故で即死だった。けれど、最後に“もう一度あの妹に会いたい”という強い想いが、君をここに留めた」

「じゃあ、謎を解けば……」

「もう一度会える。ただし、それは一度きり。彼女の“記憶”にだけ、君の存在を刻むことができる」



キーパッドに、俺は迷わず打ち込んだ。

0312

3時と12時――俺が妹と過ごした最後の時間だ。

ピッ――
音がして、扉が開いた。

向こうには、あの頃のリビングが見えた。妹が座って、本を読んでいる。

その背中に向かって、俺は言った。

「さあ、行こう」

彼女が驚いて振り返る。

笑った。

そして、すべてが白く溶けていった。

6/6/2025, 11:14:17 AM