どこか遠く。祭囃子の笛の音が聞こえた。
賑やかな子供達の声。楽しげな談笑。
今宵も繰り返される悪夢に、少女は密やかに嘆息した。
目を開けた。視界に広がる、祭の光景。
ぼんやりと、闇夜を照らす提灯の灯り。様々な種類の出店。行き交う人々。
「――え?」
違和感に眉を潜めた。見続けている悪夢と唯一、だが明らかに異なるそれに、少女は困惑し辺りを見渡した。
――祭を楽しむ人の姿が影になっている。
まるで影絵でも見ているような。現実味の薄い光景は、少女を益々不安にさせる。
視線を落とし、自身の姿を見下ろした。
他の影とは異なり、手足や衣服に色彩はある。少女だけが、影ではない。
影の人々が集う中、少女だけが異質だった。
不安で立ち尽くす少女の横を、小さな影が過ぎていく。跳ねるような足取りで、奥の方へと駆け抜けていく。
その先に何があるのか。
考えるより先に、少女の足は動き出す。得体の知れない不安に突き動かされ、影を追って駆け出した。
軽やかな笛や太鼓の音色。
舞台上で奏でられる音に合わせ、演者が舞う。
だがやはり、奏者も演者も他と変わらず影の姿だ。着けている面ですら影に変わり、少女は困惑と不安に足を止めた。
視線を巡らせ、先ほどの影を探す。
舞台の前。いくつもの大きな影に紛れて、あの小さな影が舞台を見上げているのが見えた。
影を掻き分け、舞台に近づいていく。何故こんなにも、あの小さな影が気になるのか、少女にも分からない。だが見ない振りは、とても怖ろしい事のような気がしていた。
不意に、空から何かが影へと降ってくる。ふわり、ひらりと舞い降りるそれは、桜の花びらのようであった。
薄紅とは程遠い、深紅の花びら。それが本当は何であるか、少女は知っていた。
放課後の図書室。少女から落ち、少女の先生が拾い上げ握り潰した。黒くて赤い、花びら。
だが色が違う。放課後に見た赤と、影に降ったその赤では、明らかに色の濃さが異なっている。
それが何故かを考えて。少女は思わず息を呑んだ。
それは、血の色。
それは、祭で選ばれた者の行く末であり、人が望み山が応え続けた業の色。
はっとして、影を見る。気づけば小さな影は舞台へ上がっていた。その先を理解して、少女は止めるために舞台へと上がる。
刹那、視界が歪む。目眩にも似た感覚に、耐えきれず少女は目を閉じて。
次に目を開けた時。そこは舞台の上ではなく。
狭く暗い室内へと変わっていた。
「――ここ、は?」
軽く頭を振り、少女は辺りを見渡した。
出口が、ない。否、見えないといった方が正確か。灯りのない室内は、何があるのかさえ分からない。
僅かに見えるのは、四方の壁。
そしてはっきりと見える、それぞれの壁に取り付けられた、翁面。
かたり、と音がした。
視線を巡らせる。ある翁面を視界に移し、少女はひっと、小さく悲鳴を溢した。
面の目が開いた。虚ろな隙間から、鋭い眼差しが覗く。
かた、かたり、と翁面が揺れる。徐に宙に浮かび上がり、少女の元へと近づいていく。
怯えて後退る少女の視界が、蹲る小さな影を捉えた。少女の傍らにいたらしい影は微動だにせず、近づく翁面にも反応を示さない。
少女の足が止まる。翁面が近づく恐怖よりもなお怖ろしい予感に、少女の手が影へと伸びるが、それより早く翁面が影へと近づいた。
小さな影の目の前で、翁面は止まる。鋭い眼差しが、見定めるように影を見つめ、口を開いた。
「此度は西が頂く…豊穣の約束に応えよう。すべては人間の望むままに」
無感情な声音。聞き覚えのある、記憶にない声が少女の鼓膜を震わせる。
ぞわり、と背筋を駆け上がったのは本能的な恐怖か。少女は無意識の内に、一歩後退った。
闇が蠢く。翁面から何か得体の知れないモノが溢れてくるのを、目を逸らす事も出来ずに少女はただ見ていた。
「――ひ…ぁ、あ……」
溢れ広がる影より昏い闇が、蹲る影を覆っていく。それはどこか蜘蛛が獲物を捕食するようにも、木の根が養分を吸い上げているようにも見えた。
呆然と見つめる少女の視線の先で、小さな影が僅かに揺らいだ。黒が剥がれ落ちるように、花開くように色彩が浮かび、小さな影は年端もいかぬ子供の姿へと変わっていく。
「っ!待って」
慌てて手を伸ばすも、闇に阻まれ届く事はない。見ている事しか出来ない少女の前で、影だった子供が闇に飲まれて行くその瞬間に。
子供の無感情な目が、少女の泣きそうに歪んだ目を見つめた。
「ど、して…なんでっ」
崩れ落ちた少女の言葉に、答えは返らない。
子供を飲み込んだ闇は暫し動きを止め、蠢きながら再び翁面へと戻っていく。開けたその場所には、もう誰もいない。
涙で滲む視界で、溢れた闇を収めた翁面が静かに元の壁へと戻っていくのを、少女は唇を噛みながら睨み付けた。
ふと、床に何かが落ちている事に気づく。
乱暴に目元を拭い、視線を向ける。子供が蹲っていたその場所に、赤が落ちていた。
祭で影に降ったそれよりも、色を濃く赤くして。
一枚の花びらが、落ちていた。
泣きながら、目が覚めた。
まだ暗い室内に、一瞬息が止まる。涙を拭い見上げる天井が見慣れた自室のものである事に気づき、少女は安堵の息を吐いた。
ゆっくりと起き上がる。震える肩を抱きながら、夢の内容を思い返し、目を伏せた。
あれは、過去の祭だった。少女が今まで夢で見続けていたものよりも遙か過去の祭。祭で山の妖が一人を選び、村はその一人を捧げる事で山からの恵みを受け取る。夢で見たのはその過去の記憶だった。
はぁ、と深く溜息を吐く。少女の脳裏にはまだあの子供の目が焼き付き離れない。
何もかもを諦めた、何も感じていないかのような虚ろな目。あの村では祭で選ばれた者が捧げられるのが当然だと、そう示しているかのような目だった。
焼き付く目を忘れようと頭を振って、少女は顔を上げる。何気なく、そのまま上を見た。
「――っ!」
花びらが舞っていた。たった一枚。少女の元へと舞い降りてくる。
引き攣った悲鳴が喉を震わせる。恐怖で動けない少女を嘲笑うかのように、殊更ゆっくりと花びらは降って。
少女の目の前。不自然に花びらは動きを止めた。
ぴし、と微かな音がする。よく見れば、花びらに霜が降りていた。霜が広がり、花びらを凍らせていき。
ぱりん、と。
儚い音を立て、花びらは中心から粉々に砕け、跡形もなく消えていった。
――祭はもう始まっている。
先生の言葉を思い出した。確かに祭は始まり、もう止める事は出来ないのだろう。
始まったのならば、終わらせなければいけない。止めるのではなく、終わらせる。
少女の脳裏を焼く子供の最後を、あの翁面を思い出す。
見ているだけでも恐怖で体が震えるほどであった。あの恐怖が今度は見るだけでなく、いずれ実際に身に起こるのだろう。その前に動かなくてはいけない。
少女はカーテンに覆われた窓へと視線を向ける。まだ夜明けは遠い。
一つ深呼吸をする。落ち着きを取り戻した自身の鼓動を感じながら、少女は再びベッドに横になった。
――朝が来たら、先生に会いに行こう。
少女には祭を終わらせるための知識はない。だがかつて山の妖の一人だったという先生ならば、何か知っている事があるかもしれない。
目を閉じる。目覚めた後の予定を考えながら、もう一度眠りにつく。
今度は、あの祭の夢を見る事はなかった。
20250419 『影絵』
4/19/2025, 2:19:03 PM