えむ

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《ン゙ミィイィィ゙…》

産声と呼ぶには歪な音が響く
人の少ない公園の公衆トイレ
時刻は深夜に近い
羊水に塗れたその黒い物体はモゾモゾと中から這い出て
ベチャリッと音を立てて汚い床に落ちた
物体を生き物と呼ぶにはあまりにも程遠い形状をしているが…

《ン゙ニィィ゙イィ……》

まるで気付いて欲しそうに響く音はソレが生き物であると証明していた
じゅるじゅると這って這って…
開き放たれた扉の隙間から出る

《ンニ゙…ンァア゙ァ……》

その音は弱った猫のものかと思わせるが
猫にしてはあまりにも籠った音で
それでも懸命に物体は音を放つ
忍び足で近寄る人間の足音を感知したのか物体は更に音を大きくした

《ンニ゙ャッ…ミィ゙イィィ…ミ゙ィイィィ……》

その物体を見た人間は急いで携帯を取り出して“異能者保安局”に電話する
パッと見て分かる生き物と呼ぶには歪すぎる物体を一般市民は“異能者”と判断したのだ
この世界の“異能者”は人間とは掛け離れた“異能”を持っていたり
人間とは掛け離れた“容姿”を持っていたり
兎にも角にも“見つけ次第通報”が一番とされる
もしかしたらソレは毒を持ってるかもしれない
放置してはいけないものかもしれない
だからこそ一般市民の義務教育の一環として“異能者”かもしれないと判断した際は“異能者保安局”に連絡する
この世界では警察は“対人間用”の機関であり、異能者保安局は“対異能者用”の機関として分けられている
通報した結果異能者がどうなるかなんて一般市民には分からない
だが一般市民は異能者を犯罪者と同じように見ていた
同じ“人間”というカテゴリーに異能者は入らない

『こ、コレです!』

通報した人間がやってきた保安局の人間に説明するように物体を指し示す
物体は音を放ちながら這いずって僅か2mくらいの距離まで近付いていた

『あとは私達にお任せください。後ろに居る者に住所と氏名を、後に“謝礼金”を送ります。』

何故“異能者”を通報する人間が後を絶たないか
その理由の一つが“謝礼金”である
まるで逃亡犯を見つけ通報し、確保に貢献した人間に謝礼金が与えられるように
異能者を見つけ確保に貢献した人間にも謝礼金が渡される
その額は二桁万になる事もあれば四桁万になる事だってあった
危険度で金額の振り幅が変わるのだ
物体はまだまだ小さく未知数
つまり危険度の判断が難しい為、通報した人間には二桁か三桁近くの謝礼金が送られるだろう

『そのまま掴めるか?』
『とりあえずやってみるが…ゴム手袋が溶けてると判断次第、専用物資の確保を。』
『了解。』

黒い物体はやっと人間の手に触れる
ぐちゅぐちゅと音を立ててゴム手袋越しに掌に収まろうと蠢いた

『危険性は低そうだ、手袋も溶けていない。』
『毒はあるか?』
『今はまだ分からない、万が一の為にケースに入れる。』

ぬちゃっと汚い床から持ち上げられた物体からは黒いシャボン玉のようなものがぶくぶくと浮かんだ
シャボン玉は薄汚れた天井に当たっては弾けてを繰り返す

『大きさは30cmほど、ウミウシでは無さそうだ。ヘドロに近い。』
『意思はありますか?』
『さぁな、どうやってココに来たのかも不明…もしかしたら先天性の“異能者”で母体に放置された可能性もある。』
『捨て子みたいなものですか…。』
『同情するな、所詮異能者だ。』
『ケースを持ってきました。』

ドロドロの黒い物体は丁寧に透明のケースに入れられる
途端に黒い霧がケース内から溢れるように漏れ出始めた

『毒か!?』
『急いで閉めろ!!民間人に被害を出すな!!』

蓋を閉め厳重に鍵をかけられたケース内でもごもごと動く物体は出して欲しいとねだるようだった
だが今ココで出される事は無い

《ン゙ニィィイィ……》

虚しくケース内で音は響いた

………………

『研究結果は?』
『…進展は無いです…恐らく異能者でしょうけど……あまりにも人間の遺伝子が少なく情報を得られません。』
『唯一分かったのは性別だけか…』
『そうですね、本体を直接調べた方が早いかもしれませんが……。』
『それは出来ない。利用価値が分からない今、迂闊に解剖なんてすれば我々の存続に関わる。』
『…言語の方はどうですか?』
『声を出せてるから声帯はあるはずだ。だが言語を理解出来る知能は無いかもしれない。』
『赤子同然ということですね。』
『今後どうなるか分からない…今我々に出来る事はアレを厳重に管理するだけだ。』
『上手くコミュニケーションが取れれば良いのですが…。』
『あわよくば…利用価値が高い個体であってほしいな……。』

………………

…管理を始めてから3年経過…

『コレは?』
《リ゙ンォ゙》
『コレは?』
《ィ゙チゴ》
『よしよし、覚えられてるね。』

真っ白い部屋は所々黒い煤で汚れている
その中で数枚の果物の写真を持った1人の職員が黒い粘液状の物体とコミュニケーションを試みていた
発見してから3年間
まるで人間と同じくらいのスピードで人語を理解し物の名前を覚えれるようにまでなった物体は“異能者”と判断づけられた
まだ能力は未知数だが追々研究して判明されるはずだと考えられている

『ご褒美ほしい?』
《ン゙ニィ……》
『見てごらん、りんごジュースだよ。ほら、ココにりんごがある。』
《…ルィン゙ゴ……》
『ちょっとだけ飲んでみよっか。』

職員は人間の赤子でも飲めるような無添加のりんごジュースを見せ、その紙パックを開封して中身を小さなコップに少量だけ注いだ
そして大きなコップに残りを注ぐ

『コレは“コップ”。使い方はこうやって持って、中身を飲むの。』
《……ォッ……プァ……》
『そうだね、“コップ”だね。』

黒い粘液状の物体の近くに置かれた小さなコップ
コップの使用方法を黒い粘液状の物体に教えるように飲み物を飲んでる姿を見せる職員
その姿を黒い粘液状の物体は静かに見守り
もごもごと蠢き始めた
人間のような手をぐじゃっと音を立てて生やす
ソレを見た職員は悲鳴をグッと堪えながら観察する
その手は床にベタンッと押し付けられ
まるで粘液から這い出るように物体は伸び縮みを繰り返した
そして中からは人間と同じ容姿…いや、職員とソックリの容姿がねっとりとした粘液に塗れた状態で現れる
肌の色はもちろん、髪の色、目の色…形も…先程まで黒い粘液状だった手も職員の肌の色に合わせて変わっていた

《ァ゙…ン……こっぷ…りんご……》

上半身だけ人間となった異能者は途端に流暢に言葉を発し始める
そして象った手には小さ過ぎるコップを手に取っては唇に近付けて
模倣するように口内に流し入れた

《りんご…じゅーす…こっぷ……》

職員はその様子を眺め
恐る恐る異能者の頭に手を近付ける
異能者と職員の唯一の違いは服装と下半身…そして身体から溢れる黒い霧だけ
同じ髪色は黒い粘液で少々汚れてはいるが…素手で触れても問題無かった

『よ、よく言えたね。凄いね。偉い偉い。』

異能者を刺激しないように引き攣った笑顔でコミュニケーションを取る
職員はまだまだ若く…所謂新人だった
能力が未知数な異能者と間近でコミュニケーションを任されるのはこういった若い新人が多い
何が起こったとしても“異能者管理施設”にダメージが少ないからだ
いざとなったら親族に多額の慰謝料を払えば済むだけの存在
だからこそ若い新人は命懸けで異能者とコミュニケーションを測る
自分が殺されないように丁寧に丁寧に

《……よくいえたね。すごいね。えらいえらい。》

異能者は職員の言葉を即座に覚えて復唱しながら頭を撫でられていた
そして異能者も職員の頭に手を伸ばして撫で返す
喉の奥がギュッと締め付けられるような感覚を職員は覚えたが…目の前に居る異能者に敵意が無いと分かった瞬間肩の力が抜けた

『撫でてくれてありがとう、もう時間だから行くね?』
《なでてくれてありがとう。もうじかんだからいくね。》

言葉を理解する段階なのだろう
異能者はオウム返しをしてから職員が離れる時に毎回手を振っていたのを模倣するように手を振って職員を見送った
重たい扉がバタンと閉じ、ガチャリと鍵をかけられる
そして分厚いマジックミラー越しに見ていた職員数名が見守る中ズルズルと床にしゃがみ込んだ
腰が抜けた

『…素晴らしい…。』
『し、死ぬかと思いました。』
『とてつもない成果だ。アレは人間を模倣出来る存在なのかもしれない。』
『……“物を使用する”という行為も完璧でした…言葉を理解出来てるかはさておき…物覚えは良い方だと思います、私が面談終わりに手を振るのを覚えていましたから。』
『今度は“言葉”ではなく“言葉の意味”を教えるんだ、会話が可能な頃には違う能力も見れるかもしれない。』
『……分かりました…。』

興奮したようにその場を離れる職員を前に…新人は膝を抱えて震え出した
アレが完璧に自分を模倣したのが恐怖でしかなかった
まるで鏡でも見ているかのようで…なのにアレの目には生気が一切感じられない
自分の死体が目の前で動いて言葉を発してるように見えた
何より一番怖かったのは
“自分の声も模倣されていたということ”

………………

…管理を始めてから8年経過…

『こんにちは〜』
『うん!こんにちは!挨拶も上手になったね。』
『上手になったでしょ?見てみて、身体。本で見たのをちょっとだけアレンジしたやつ♡』

管理が始まってから8年の月日が流れた
言葉の意味を理解し、人の感情とやらを理解した異能者とのコミュニケーションは比較的簡単なものになっている
人間の体についての本や色んな人が写っている雑誌を見せて、出来る限り自分と離れた容姿になってもらおうと誘導した結果が目の前に居るふわふわの金髪の好青年だ
淡い青色の瞳にはやはり生気が無いというか…何処か暗い印象を覚える
でもここまで綺麗に人の体を模倣出来るようになり、自分なりにアレンジを加えられるようになったのは大きな進歩だと思いたい

『アイドルグループの〇〇さんかな?』
『多分その人♡』
『結構アレンジしてるね、髪型とか色とか…あと目も。』
『ん〜…肌の色と体型は似てても良いけど、髪型や色とかは似ない方が良いんでしょ?』
『どうしてそう思ったの?』
『だって皆怖がるじゃん♡』

軽い言葉を交わしてて分かった
目の前の異能者は自分が相手に対して恐怖を抱きながらコミュニケーションを取っていたのを理解していたのだ
いつから理解していたのかは分からない
だけど…スタイルの良い高身長の身体に何処か幼い顔立ち、長い睫毛でニコニコと笑う相手はそんな自分達を気遣ってくれていると感じた

『…そうだね、皆自分とソックリな人を見ると怖いかも。』
『だからアレンジした!見て〜くひもひょっとはへかえひゃ♡(口もちょっとだけ変えた)』
『お〜八重歯かな?歯も舌も上手に出来てるね。』
『ふふ〜ん♡色も綺麗でしょ?一番難しかった♡』
『色々出来て偉いね〜。』
『うん!あと最近はね?“武器”について教わったんだ。“包丁”や“水鉄砲”とはちょっと形が違うやつ。明日は使い方を教えるんだって。』

少し前は口内の色を模倣するのが苦手だった異能者は口を広げて中身を見せてくれる
上顎の色も舌の色も健康的な色味…いや、ソレを通り越して非常に綺麗な色をしていた
歯の色も真っ白で並びも良く、ちょっとだけとんがった八重歯が特徴としてしっかり映えている
そして異能者は今日の近況報告を自分に笑顔で語った
目の前に居る異能者の利用先が決まった事は自分だって分かっている
この異能者は“軍事利用”を目標に教育を始めた
まずは武器を教え、使い方を教え、ソレを使う相手を教える
今自分を気遣う優しい心も壊し、冷酷無慈悲な殺戮兵器に作り替える
理解していたはずなのにちょっとだけ声が出せなくなった

『……そうだね、沢山覚える事あるけど大丈夫?』
『大丈夫♡だって面白いから!』
『……なら良かった!』

まるで小学生が友達と勉強してきたとでも言うように“面白い”と表現する異能者に胸が痛む
人間のような見た目だから?
8年間ずっとコミュニケーションを取ってきたから?
理由は分からないが…屈託のない笑顔を向ける異能者が今後戦争に利用される事実が良心を何度も殴りつけた

『今日は何して遊ぶ?また触り合いっこ?』
『そうだね、また体触らせてもらってもいい?』
『ん〜…飽きた♡』
『飽きちゃったか〜…そぉこをなんとか…。』
『え〜…えっち♡』
『っ…いつそんな言葉覚えたの?』
『‪✕‬‪✕‬さんに教えてもらった!』
『そうなんだ!でもあんまり使っちゃダメだよ?』
『でも‪✕‬‪✕‬さんは女の体触って何回も言ってたよ♡』

自分は異能者の体調や体の仕組みを資料に纏めるために触診を行っている
心音や呼吸音を聞く為の聴診器、反射機能を確認する為の小型ライトやゴム製のハンマー
でもソレとは違う触られ方を目の前の異能者はされていた
体を作り替えれるという事は“男でありながら女体にもなれる”という事
ソレは閉鎖空間と言っても過言ではない管理施設において“娯楽”の一環と化していた
まるで我が子が性暴力にあったかのような感情を覚えてしまう
でも異能者に人権なんて存在しない
自分がソレに対して怒りを覚える立場でも無い
でも…目の前の異能者が‪✕‬‪✕‬という名の先輩職員以外にソレをされたのかを聞く度胸はなかった

『……と…とりあえずまた触り合いっこしていい?』
『□□さんもえっちしたいの?』
『そ、そうじゃなくて!新しい体だから触りたいな〜って……。』
『仕方ないなぁ、えっちしてあげる♡』
『…………そうだね、ありがとう。』

ジクジクと痛む良心を無理やり抑えて異能者の肩に触れ、関節がきちんと作られてるかを上から順に確認していく
肩、肘、手首、膝や足首…全体的に問題無し
そして瞳孔が光に合わせて大きくなったり小さくなったりするかを調べる為に小型のライトで眼球を観察、こちらに関しては反応無し

『首の動きを見てもいい?』
『いつもの〜?』
『そうそう、頷いたり首を振ったり上を見上げたりするやつ。』

異能者は自分の指示した通りに首を動かした
柔らかすぎず固すぎず…程よい柔軟性を持った動きを見て問題無しと書類に書く

『次は音を聞くやつだよ。』
『…』

聴診器を耳に付けてる間…ほんの短い間だった
離していた目を異能者に向けたら先程の面影を残した状態の美女が目の前に居た
薄い患者服から浮き出る女性的な部位を見てゴクリと生唾を飲んでしまう
言葉を失ってしまった自分より先に口を開いたのは異能者だった

『どう?嬉しい?』
『……』
『アハハッ♡変な顔〜♡』

自分の顔を覗き込み、絶句して目を見開く自分を揶揄うようにケラケラと笑う
目の前の異能者は人の心なんて理解してない
いや、理解はしていても持ってはいないんだ

『い、今さっきの体じゃないと触り合いっこの意味がなくなるから……。』
『でも男の人ってこっちの方が好きでしょ?』
『違う…違うよ、違うんだよ……。』

突きつけられた全てが残酷に感じた
男性が悦ぶ体をどんな形で教えられてしまったのか…
ソレが脳内を刺激する度に周りに対して嫌悪感を覚える
涙が溢れてきた
まだ管理し始めて8年
人間と過ごして8年
書類には公衆トイレに産み捨てられていたようだと書かれていた異能者は人間換算で言えば8歳そこらなんだ
そんな異能者が成人してしっかりと善悪を認識した大人に利用されて食い物にされて
ソレが当たり前だと認識して自分を悦ばす為に実行してる
まるで児童虐待と同じじゃないか

『□□さん具合悪い?』

いつの間にか崩れ落ちていた自分の頬にソッと手を当てて目を合わせられる
淡い青色の瞳が綺麗で虚しくて
そこに映る涙と悲痛でグシャグシャになった自分の顔は醜くて

『アハハッ“面白い”顔してる〜♡』

異能者にとって自分は面白かったらしい
面白い……そう教え込まれたのか、そう本気で感じているのか…
もう自分には分からない
分からないなりにグシャグシャになった顔で聴診器を柔らかな胸に当てた
張りがあるのに柔らかい
そんな理想的な感触をしてるというのに
異能者から心音や呼吸音は聞こえなかった

………………

『‪✕‬‪✕‬先輩…どういう事ですか?』
『どういう事って何がだよ。』
『異能者に…不用意に手を出す必要は無いはずです。』
『あ〜ぁ、□□が担当してんだっけ?』
『担当とか…っ…関係ありません!異能者と不用意に行為に及んで新たな異能者が産まれたらどうするんですか!?』
『そんな心配する必要無いだろ?』
『何を根拠にそんな事を!?』
『アレは雄だ。いくらザーメンぶちまけたって孕む事はねぇよ。』
『体の形状が不安定な異能者を前に性別なんてあってないようなものです!!』
『…うるせぇなぁ。良いか?□□。アレは雄ってのは研究結果で出てる、もし雌になっちまってアレが孕んだら“利用出来る個体”や“研究対象”が増えるだけだ。この管理施設でやってる事は変わんねぇよ。』
『ですが!!』
『あまり感情移入するもんじゃねぇ。アレは見た目だけ人間に近付けてるだけで“人間”じゃない、人権も無い。どう扱っても誰も罪を問えないし向こうが攻撃的にならずに従順になればお偉い様もニッコリだ。』
『……。』
『お前も発散してきたらどうだ?胸のデカさから尻のデカさまで自由自在だぞ?自分好みの女の特徴纏めて楽しんでこいよ。』

ニヤニヤ笑いながら自分の仕事に戻る‪✕‬‪✕‬に自分は何も言えなくなり1度研究室から出て廊下を歩いた

異能者に人権は無い
異能者を人間として扱ってはいけない
そんなの小学生の頃から分かってた
だが新人だった自分が初めて担当した異能者は最初こそ“異能者”として見れた
無論怖かったさ
あぁ怖かったよ
いつ自分が死ぬか分からなかったあの時期が一番怖かった
でも今は違う
人間と同じように笑って
人間と同じように喋って
人間と同じように学んで

『クソッ…クソックソッ……。』

自分が“人間”とは違うと自覚した上で人間に合わせようとする異能者が居る
そんな異能者を食い物にし、好き勝手利用する人間が居る
人の心が無いのはどっちなのだろうか
どっちにしても自分は彼の味方になんてなれない
だって自分は“人間”で彼は“異能者”で
親族でもなければ保護者でもなくて
ここから逃げたって彼をどうやって生かしてくかなんて思いつかない
そんな自分が惨めで情けなくて仕方なくて
書類室に逃げ込んでは声を押し殺して泣いた

………………

彼を管理してから12年経った
初めて上層部の方に呼ばれ着いてくるよう命令され、その背中を見つめながら歩いてく
彼が何かやってしまったのだろうか…なんて考えたが焦燥感は無い
なんなら何かやってしまった方が利用先に悩んでくれるかもしれない…なんて淡い期待すら持ってしまう

『□□くん、君の担当してる異能者の名前が決まった。』
『……異能者に名前を付けるんですか?』
『その方が扱いやすいからだ。アレの名前は“τρόμος(トュローモス)”、意味は“恐怖”だ。』
『何故そんな名前に?』
『τρόμοςの利用先は戦場だからな。敵軍に恐怖を抱かせる象徴として命名された。』

名前と呼ぶにはとても嫌な理由だった
聞かない方が良かったと後悔してももう遅い
異能者を収容するには大き過ぎる空間を上から眺められる…所謂“特等席”と呼べる部屋の扉が開かれる
基本上層部や更に上の人間しか入れない部屋だ
特殊ガラスで中が見れる仕組みは彼が収容されてる部屋となんら変わりは無い

『さ、お前も見てやれ。τρόμοςの価値の高さを。』

自分はゆっくり部屋を進んでガラス越しに彼を見た
言葉を失った
彼は自分の体から黒い霧を出し、そこから武器を生成して人間を射殺したり刺殺したりしている
中に入れられた人間は怯え逃げ惑って結局彼に捕まって赤い鮮血をばら撒き死んでいく

『ど、どういう事ですか!?あの人達は…。』
『心配するな、奴らは死刑囚だ。一般市民に罪を働いて死刑判決が降りた人間を再利用してるだけに過ぎない。』
『でも…なんで…。』
『見てわかるはずだ。τρόμοςは殺戮兵器として運用可能な事が。アレは人間の価値も生命の重さも理解してない。理解させないように“教育”したからな。上の命令を従順にこなし敵を殲滅する…更には自分の能力で武器を生成出来る為、軍資金の大幅削減にも繋がる。まさに戦争を行うどの国も喉から手が出る程に欲しい“異能者”だろう。』
『……。』
『τρόμοςの体を解剖したが心臓やソレに近しいものは存在しなかった。つまり、τρόμοςをいくら撃ってもτρόμοςは再度体を作り戦場を動ける。』
『解剖?麻酔はしたんですか?』
『する訳がない。τρόμοςには痛覚耐性を付ける為に何度も“教育”を繰り返したんだ。麻酔に頼らなくても素直に解剖させてくれたさ。』
『……それは…あまりにも……人の道から…。』
『□□くん、名前が付けられたからといってアレが人間になる事はない。私達がτρόμοςをどのような形で“教育”しても国の為に利用出来るのであれば手段は問わない。』
『……ざ…残酷ですよ…。』
『そんな残酷な施設が“異能者管理施設”だ。□□くんもその管理施設の一職員…そろそろ割り切る事を覚える必要がある。』

あまりにも非人道的過ぎる行為…だが相手が“人間”じゃなければ許されてしまう
異能者は人間じゃない
“異能者”は“人間”じゃない
ガラス越しに映る彼に目線を送る
ソレに気付いたのか殲滅作業を終えた彼は笑顔でこちらに手を振ってきた
何を言ってるかは聞こえないが…自分の名前を笑顔で呼んでる気がする
割り切る…彼を…“異能者”として…

『□□くん、君の今後の行動次第ではもっとマシな仕事を紹介してやる。τρόμοςは良い殺戮兵器になった、もう“優しい担当者”なんて要らないんだ。分かるね?』

肩に置かれた手がズンッと重く感じる
上司の言葉の意味は理解できた
自分が彼に情を抱いてしまってるから
邪魔になるような行動を牽制したのだ
もし何かしでかすのであれば…自分がどんな場所に送られるのかなんて分からない

『今後ともτρόμοςの監視を頼むよ、□□くん。』

そう言って上司は部屋から出て行った
患者服を真っ赤に汚した彼がピョンピョンとこちらにアピールする
自分は涙を堪えて笑顔で手を振り返す事しか出来なかった
自分は新人から抜け出せたとしても上層部の人間にはまだ程遠い
価値の無い存在とはきっと自分の事を指すのだろう

………………

管理してから16年が経った
τρόμοςは利用価値はあれど施設に対し危険性は無いと判断され部屋から自由に外に出る事が許されるようになった
とはいえ自分の監視付き
今は一緒にテーブルを囲って椅子に座って共用ルームでファッション雑誌を読む彼を自分は静かに眺めていた
危険性無しと判断された異能者が時折利用する共用ルームだが…そう判断される異能者は数少ない
だから彼には仲間というか…友達と呼べる者は居ないと言っても過言ではないだろう

『トュローモス…。』
『ん〜?』
『トュローモスは服を見るのが好きなのかな?』
『うん、靴が好き♡』
『靴?』
『そう!オレ常に裸足だからさ〜綺麗な靴見てると良いな〜って思う♡』
『へぇ、どの靴が一番好きなの?』
『この中だとね〜…コレかな♡』

彼が指し示した靴はヒールが高く
派手な色合いと透明なヒール部分に薔薇が入れられたような…とても特徴的な靴だった

『こういうのが好きなんだ。』
『うん、可愛いでしょ♡』
『可愛い靴が好きなの?』
『ん〜…可愛いのも勿論好きだけど、ヒールが高いのが好きかな?見て、足とかすっごい綺麗に見えるから。』
『そういう事か。トュローモスは足を綺麗に見せたいんだね。』
『よく褒められるからね〜♡』

ニコニコとした笑顔でコミュニケーションを取る彼を未だ“人間じゃない”と割り切れていない自分が居る
あんなに残酷な景色を見たというのに…アレも夢だったのでは?なんて思ってしまう
もしかしたら彼みたいに姿を変えれる異能者がたまたま彼と同じ容姿をして殺戮していたのでは…なんて
そんな事を考えてしまうくらいには自分は現実を見ていない

『トュローモス。』
『なぁに?』
『靴を買うにはね、お金が必要なんだよ。』
『お金って?』
『また部屋で教えてあげるね。』

彼がいつか戦場ではなく街を歩けるようになった時
好きな物を身に纏って、好きな靴を履いて…そんな事が出来るようにお金について教えてあげようと思った
あくまで理想論であり夢物語だが
もしそんな日が来るのなら知っておいて損は無い気がした
全部自分の……

『□□先輩!』

名前を呼ばれたからふと後ろを振り返る
そこには後輩の△△が居た
隣には元気さの欠片もない幼い少年が1人居る

『トュローモス、ちょっと行ってきていい?』
『良いよ〜?…あの子は?』
『私服だから誰かのお子さんかな…初めて見るから俺にも分からない。』
『話しかけに行ってもいい?』
『イタズラはしちゃダメだぞ?トュローモスは面白いからってよくイタズラするんだから…。』
『え〜♡ちょっとそこは保証出来ないかも♡』
『はぁ…とりあえず気を付けてな?』

ソレだけ言ってから彼から離れて後輩である△△に近寄る
軽い世間話をしてから隣に居る幼い少年の話題に入った

『あ、コレですか?コレは最近実験に成功した個体ですよ。』

意気揚々と語る△△も異能者を人間として扱っていない
異能者はまるで家畜のように個体だなんて判断される
数え方だって“1人2人”ではなく“1体2体”だ
幼い少年に元気良く聞かせる話題では無いと判断し、『△△、少し離れても良いかな?うちの子もこの子が気になってるらしくてさ』と誘導して少年から引き離した
2人が視界に入る状態で△△と会話を続ける

『で……実験ってなんの事?』

△△は実験について詳しくは無いがざっくりとした説明をした
人間が制御不能と判断した異能者を制御可能にする為の実験が繰り返されており
あの少年は制御可能を通り越して物静かになった異能者らしい

『そんな実験もしてたのか…。』

まるで異能者の個性を握り潰すような実験が行われていた事に軽くショックを受けた
でも△△は結構この施設内で噂になってる実験だったと
ソレを自分が知らないなんて…と
首を傾げながら疑問を口にする

『俺は自分の子で手一杯だからね。最近だと能力の扱い方の幅を広げる為に訓練中なんだ。』

自分の言葉を聞いて△△はクスッと笑った
そして自分を“おかしい”と表現した

『なにが?』

異能者は人間じゃないと
そんな扱いしてる人はおかしいと
異能者は危険でしかないと
危険性無しと判断された個体が少ないと
だから人間みたいに話すなんて変だと

『…まぁ…そうかもね…。』

この施設に収容されている異能者の数をざっくりと雑計算してから危険性無しの個体の割合を口にし
そんな異能者なんて害獣と一緒だ!なんて決めつける
少しばかり口が悪くなりそうになったが上司に言われた言葉を頭の中で復唱しながら優しく声をかける

『…そこまで言わなくてもさ、△△の子だって危険性無しって判断されたんだろ?』

そう口にしたらまるで愚痴でも吐くかのように己の苦悩をズラズラと並べ始めた
制御不能だと判断されていた異能者の担当をするのがどれほど恐ろしかったか
まずコミュニケーションすらまともに取れない
酷い時は自分が自分なのか分からなくなる
気味の悪い存在
並べられた言葉がグサグサも心に刺さる
初めて彼の担当をした時と重なるものもあったから

『ま、まぁ最初は大変だもんな。気持ちはわかるよ。』

△△は今の自分とは程遠い価値観の持ち主だというのは痛い程分かった
視界に映る2人が壁に持たれかかるようにコミュニケーションを取ってる

『ほら、△△。あの子達だって意外とコミュニケーションが取れるんだよ。』

△△は少しばかり訝しげに見ながら所詮は異能者だと首を振る

『だとしてもだ、コミュニケーションが取れるなら人間じゃなくても仲良くなれる。犬や猫だってそうだろ?』

その言葉でやっと腑に落ちかけてるのか顎に指を置いて悩み出した

『だから異能者が全員危険かと言われたらそうでも……』

自分の言葉を遮るように視界の端が黒く染まった
ソレが何を示してるのかを理解するのに数秒かかった
反射的に△△を突き飛ばして黒い霧に駆け寄る

『トュローモス!!』

その呼び掛けも虚しく巨大な霧は自分すらも呑み込むサイズに膨らみ、大きな爆発音が鳴った
霧で視界が持ってかれないように腕で覆っていた顔に光が射し込む
管理施設の分厚い壁が破壊されたのだ
瓦礫がガラガラと廊下に落ちて
巨大な霧は既に外に出ている
初めて出会った頃を思い出させるドロドロの巨大な手には△△が担当していると思わしき幼い少年が居た

『△△!応援を呼べ!今すぐだ!』

△△に指示を出して巨大過ぎる黒い霧…いや、彼と少年と自分の3人だけになる

『トュローモス……。』
《ごめんね〜□□♡オレ“面白い”事見つけちゃった♡》
『……そうか…確かにお前は“面白い”事が大好きだったもんな。』
《うん♡》
『…トュローモス!』
《なぁに?》
『お前の名前は“τρόμος・και・τρελός(トュローモス・カイ・トレラ)”だ!!レラって呼んでもらえ!!』
《…?》

彼が意味を理解してないのは重々承知
混乱に乗じて異能者が暴れ出したのかブザーが管理施設に響き渡る

『俺の事は忘れて遠くに行け!!うんと遠くに!!お前は自由だ!!!自由になれ!!!“最高に楽しめ”!!!!!』

ブザーに掻き消されないように叫んだ
綺麗な青空とは正反対の黒い霧に大声で叫んだ
自分の目の前にある大きな逃げ道から何人もの異能者が逃げていく

『□□!捕まえろ!!1人でも多く捕まえろ!!逃がすな!!』

指示を飛ばされたが自分は何もしなかった
あーぁ、もう彼に会える事は無いんだろうな
そう思いながら…遠くなっていく黒い霧を眺めていた
逃げ出していく異能者を眺めていた
もしかしたら本当に危険な子が混ざってるかもしれない
でもそれでも良かった
この施設だって残酷で恐怖で汚くて醜い
彼らの手で人間が追い詰められるのなら
ソレは人間の自業自得というやつだ
共存だって選べたのに選ばなかった人間の罪だ

『“恐怖もまた楽しめ”…か…。』

自分が最後に贈れたのは靴でも知識でも無かった
これからの彼の人生が楽しい事を願う為のエールだけだ
自分に出来たのはそれくらいだった
逃げ出す異能者の邪魔にならないようにその場にドサッと腰を降ろして彼の居ない青空を眺める
レラの“面白い”に自分が入ってたかは分からない
もしかしたらこうして彼が逃げ出すのは必然だった
…かもしれない
砂時計が重力に従って落ちてくように
16年か

…でも…満足かな…


お題:砂時計の音
〜あとがき〜
誰にも見てもらえなかった創作子の過去
モブ視点で送ります
誰か見てくれる事を願って

10/17/2025, 9:07:38 PM