甘々にすっ転べ

Open App

#夫婦

夢も希望も無いなら
せめてこのまま"今"が続けと思った。

秋風が窓を叩くのに、彼女は気にした風もなく私の家にいつの間にか居着いた猫を撫でている。

男やもめの本と書き損じた原稿だらけの部屋を、彼女は片付けに通ってくれている。

「今度、カフェーにでも行きませんか。」

彼女はただ嬉しそうに
はい、と答えてくれた。

デェトと言うものに浮かれ、その日は四六時中彼女を見ていた。
普段見慣れない洋装だった事もある。

それから活動写真を見に行こうと、歩く最中。
口が勝手に開いたのだ。

「月が綺麗ですね。」

彼女は、あっと手を自分の髪へ伸ばした。
洋装に似合う三日月の髪留めを私が褒めたと思ったのだ。

「ありがとうございます。」

伝わらなかったのだろう。
私も大概ロマンチストだったのだ。
浮かれて舞い上がる滑稽な男だ。

そう、思っていたのに。


「何時仰ってくださるのかと、お待ちしておりました。」

俯いてきゅっと口の端を結ぶ彼女は、私の幻だろうか。

「漱石様の本は私も読みました。」

「そ、そうか!」

私の気のせいではなかった。
私はそうだ。
活動写真はまたにして、大慌てで簪を見に行こうと誘った。
滅多に無い洋装をした彼女にだ。
その慌てっぷりはまたもや滑稽だろうが、彼女が嬉しそうに笑ったのでそれで良いことにする。

「櫛も、買って良いか。」

「あの、気が早過ぎます、」

「だが、君に似合う。」

ぱしっと痛くも無い指が私の腕を叩く。

「では、私にはタイを選んでくれないか。」


彼女がまた嬉しそうに笑う。

嗚呼

夢も希望も出来たじゃないか。

11/22/2023, 11:03:22 AM