ミミッキュ

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"天国と地獄"

 シリンダー錠が外される音、そのすぐ後に扉を開く音と革靴の足音が聞こえた。
「おかえりー」
「みゃあ」
 廊下の奥まで聞こえるよう声を張り上げ、家主の帰宅を声で迎える。ハナはドーム型のケージの中で、メッシュ素材の窓を覗き込みながら鳴き声を上げる。
 すると、ゆっくりとした足音を鳴らしながら、家主がリビングに入ってきた。
「夜勤お疲れ。飲み物いるか?」
「スポーツドリンク」
 そう言う顔は少しやつれ、一瞬見えた足取りは重々しかった。
 どんなに体力があれど夜勤は身体に相当こたえるようで、夜勤を終えて帰ってくると十中八九この様子である。
 それに本人もいい歳になっている。今後はもっと酷い様子で帰ってくるに違いない。
 そんな事を思いながら冷蔵庫の扉を開け、五百mLのスポーツドリンクを取り出す。
「はいよ」
「ありがとう」
 スポーツドリンクを手渡すと、ダイニングチェアを引いて腰掛けてキャップを開け、中のスポーツドリンクを流し込んだ。
 立派な喉仏が上下に動いて、ペットボトルから口を離すとキャップを閉めてテーブルの上に置く。
「飯にするか?」
「そうする。何を作った?」
「シチュー。米炊き終わってるし、切り分けたバゲットもある。その前に着替えてこい」
 そう言うと「分かった」と立ち上がって自室に向かった。
 時々──特に夜勤明け──、ご飯を作りに飛彩の自宅に来ている。
 ハナを迎えてからは来れていなかった──マンションなので動物を連れてくるわけにはいかず、かと言って誰かに預けるのも心配だった──ので、ドーム型のケージを設置してくれた時に「また作りに来られる」と話していた。
 飛彩の家のキッチンに立つのは本当に久々で心配だったが、俺が再び作りに来た時の為に調理器具の配置を変えずにおいてくれたのだろう。以前のように作れて安心したし、なによりその配慮が嬉しかった。
 部屋の扉が開き、中から部屋着姿の飛彩が出てきた。
「今盛り付けるからちょっと待ってろ」
「分かった」
 そう頷くとケージに近付き、メッシュ素材の窓から中を覗き込んだ。
 飛彩の声とハナの鳴き声が聞こえる。それなりに距離があるのでなんと言っているか聞き取れないが、ハナが窓越しにじゃれているのは分かる。
 微笑ましく思いながら、シチューを深皿に盛り付けていく。色の違うランチョンマットの上にそれぞれ置いて、その間に切り分けたバゲットを入れた小さな籠を置く。
 白米をつごうと茶碗に手を伸ばす。
「風呂上がりに茶漬けを食べたいから、今はいい」
 背後から声がかかり、手を止めて振り向く。
「わーった」
 少し顔を引きつらせながら返事をして、茶碗に伸ばしかけていた手を引っ込めてキッチンから出る。
──風呂上がりに茶漬けって、どんだけ食べる気だよ。
 いくつ歳をとっても、胃袋の衰えを一切感じない。
 本人がよく動くからなのか、それとも元から胃が大きくて多少衰えても許容量が減らないのか。どちらにせよ化け物。
 だが飛彩の場合、おそらく両方だろう。化け物以上だ。
 ケージに近付き、傍に置いていたリュックからハナのご飯皿とドライフードと水皿を出し、キッチンで水道水を入れて戻り、ご飯皿にドライフードを盛り付けてケージのファスナーを開け、中にご飯皿と水皿を置く。
 ケージの中のクッションをこねていたのを止めて皿の前に陣取ると「みゃうん」と声を上げて食べ始めた。
 ファスナーを閉めてダイニングに近付く。既に座って待機していた飛彩の向かいのダイニングチェアを引いて座る。
 どちらからともなく手を合わせ、「いただきます」という声がユニゾンする。
「……うん、美味い」
「あっそ」
 素っ気なく返してシチューを口に入れる。
 正直言うと、以前と味が変わっていないか。変わっていたとしても、飛彩の口に合わない味になっていないか心配だった。
 だから「美味い」と言われて、心底ほっとしている。
「また大我の手料理が食べられて嬉しい」
 微笑みながら言ってきて、ドキリと心臓が跳ねる。
「……そーかよ」
 バゲットを一つ取り、スプーンでシチューを掬いバゲットの上にかけて食べる。シチューの塩味と小麦粉の甘さが相まって癖になる。
「こうして食べるのも美味いな」
 すると俺と同じ食べ方をした飛彩が、感心した声色でまた「美味い」と言った。その目はまるで、新しい遊び場やおもちゃを見つけた子どものようだ。
「シチューなら、まだいっぱいあるぞ」
 そう言って、シチューをまたバゲットの上にかける。
「その食べ方、気に入ったんだな」
「……うっせぇ」
 短く吐き捨てて、半ばやけくそのように一口食べる。
 すると少し離れた所から水の、ぴちゃぴちゃ、という音が微かに聞こえる。ハナは既に食べ終えたらしい。
「本当に大きくなったな」
 咀嚼を終えて飲み込むと、ハナが入っているケージを見ながら呟くように言葉を紡いだ。
「あぁ。うちに馴染んできてから、運動不足で真夜中に暴れ回られると面倒だから毎日おもちゃで遊んでやってるが、でかくなって筋力も付いてきて。散歩なんて、ハーネス付けてなきゃ何処にでも行きそうでよ」
 もう大変、そう言ってシチューがけバゲットを食べる。
「あそこまで利口に育ったのは、お前が親代わりになったおかげだろうな」
「いやいや本人……本猫?、の元からの賢さだろ。俺はただ駄目なもんは駄目だと言ったり、色んなものを見せてきただけだ」
「子は親の背を見て育つ。先程のようにご飯を食べる際一声鳴くのは、お前の礼儀正しい所を見て育った確たる証拠だ」
 そう言って、再びバゲットにシチューをかけて食べた。
「……ふん」
 いたたまれなくてそっぽを向く。数秒の間、沈黙が降りる。
「帰って少し寝たらハナを風呂に入れなきゃな」
 無理矢理話題を変えようと口を開く。
「そうか。暖かくなってきたから、そろそろ換毛期か」
 ハナを風呂に入れたのは、ハナを保護した時のみ。
 あの時は少し暴れたが鳴き喚く事は鳴く、少し湯船の中に入れたら大人しく洗わせてくれた。
 久しぶりだし、あの時のように大人しく洗わせてくれるか心配だ。
「うちの風呂場を使えばいい」
「駄目だ。洗ってる最中に鳴いたりしたら近隣からクレームが入る。そもそもシャンプー持ってきてねぇし、近くにペットショップねぇから無理」
「そうか。ただ湯で洗い流しても、シャンプーを使って洗わないと意味が無いか」
「……だからって猫用シャンプー買うなよ。ここでハナのシャンプーする気ねぇから」
「分かっている」
 本当か?、と疑念を持ちながら最後の一口を食べる。手を合わせ「ご馳走様でした」と言うと、またユニゾンした。同じタイミングで食べ終わったらしい。
「片付けは俺がやる。ゆっくり座っていてくれ」
 そう言うと食べ終わった食器をまとめて手に持ってキッチンに入り、洗い物を始めた。お言葉に甘えてソファに座る。
「残りのシチューは、夕飯に温めて食べる」
「また食うのかよ」
 飽きねぇのか、と半ば呆れながら言うと
「折角の料理がもったいないだろ」
「……んで?この後風呂に入って、風呂上がりにお茶漬け食べるってんだろ。……まさか白米も全部食べる気か?」
「白米は茶漬けを食べた後小分けして冷凍する」
「ならいい」
 水道水の音と食器同士が当たる音のみが響く。ソファに座りながら目を閉じて音に耳をすませていると次第に音が止み、次に太腿に重力を感じた。
 目を開けると、組んでいる足の上に頭を乗せている。頭を持って組んでいた足を解き、太腿の上に載せる。
「……男の膝枕なんて固いだけだろ」
「大我のだからいい」
「……物好きだな。お前も、ハナも」
 そう吐き捨てると、後頭部を向けながら笑い声を転がした。
 笑うな、と言おうとして口を開くと、穏やかな寝息が微かに聞こえてきた。
──こんにゃろ……。
 だが起こす気にはなれなくてそのまま膝枕をしていると、穏やかな寝息につられて眠くなっていき、目を閉じて意識をゆっくり手放した。

5/27/2024, 2:31:35 PM