柔良花

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 気がつけば床も壁も真っ白な部屋に居た。
 窓も電灯もないのにぼんやりと明るくて、家具ひとつ置かれていないまっさらな部屋。そんな不思議な空間の中に唯一あったのは、穏やかな顔で眠る少女の姿だった。
 からすの羽みたいに黒い髪の毛と、ライムグリーンの洋服、仄かに染まる頬の朱色は、色の無い部屋の中で一層映えて見えた。
 
 彼女が何者なのか、ここは何処なのか、ボクには何も分からない。けれども彼女を見つけた瞬間確信したのだ。眠り続ける君が目覚める時まで、見守り続けるのがボクの役目なのだと。
 空間も思考も何もかもが空白な世界で、それだけは確かだった。

 最初のうちは膝を抱えて座り込み、寝顔を眺めるだけだった。ここには君とボク、それ以外に何もない。そうする事しか出来なかった。
 冷たく固い床の感触に臀部が痛む。こんなところに寝転んでいては君の身体に良くないだろう。せめて何か毛布のようなものがあったなら。そう願い目を閉じれば、ふわり、と膝に柔らかな布の感触。
驚いて目を開けば、そこにはクリーム色のブランケットが掛けられていた。もしやと思い枕を想像すれば、どこからともなく雲のように柔かい枕が現れる。どうやら思い浮かべたものが実体化するらしい。
 どうして、と思う気持ちはあるけども、考えたところで僕には分かりっこないのだろう。そんな些細な疑問は体中を駆けめぐる熱のような喜びですぐにかき消された。
 ――ああよかった、これで君のお世話ができる。 薄い霧の向こうにあった自身の存在意義が見えた気がしたのだ。
 
 空白の部屋を埋めるために色々なものを思い浮かべた。ベッドにテーブル、ソファに本棚。寝床から落ちても君が傷つかない様に、床にはふかふかのカーペットをひいた。薄暗い部屋では君の目が覚めた時に困ってしまうだろうと天井に照明をぶら下げて、白い壁にはいくつもの絵と、薄いカーテンの付いた窓を取り付けた。ふと気になって扉を作ってみたけれど、残念ながら鍵穴もないのに開かなかった。やっぱり、ボクの世界はこの部屋だけみたいだ。たとえ開くとしても、君を置いて行くことはできないから、意味はないのだけれども。
 食事はどうしようか。この部屋の中では不思議とお腹が空かない。飢えることが無さそうなのはありがたいけど、なにも食事は生存の為だけのものではない。瞼を重く閉じていても味覚や嗅覚は働いて、素敵な夢へと還元される。眠りを彩るものはどれだけあっても良いだろう。
 眠り続ける君に届けられるのは精々スープや飲み物、ゼリー、それに焼きたてのパンの香り。それくらいだ。けど、それでいい。君のためにできることが増えた事実それだけで、ボクの心は満たされるのだから。
 
 そう、出来ることならなんでもした。
 君の身体が冷えないようにこまめに寝床を整えた。
 その眠りが安らかであるように子守唄を歌った。
 魘されていれば頭を撫でて「大丈夫」と何度でも呟いた。
 君が寂しくないよう花壇を作って種をまき、色も形も様々な花を咲かせた。
 丸く柔らかいぬいぐるみを寄り添わせて、僕が知っている素敵な話をいくつも語りかけた。
 何度も、何回も、何日も、ボクにできることを繰り返した。それでも何も変わらなかった。
 色鮮やかな部屋の中で、眠り姫は夢を見続けていた。

 百年の眠りについたお姫様、これがおとぎ話だったなら王子様の口づけで目覚めるのだろう。
もちろん想像してみた。部屋いっぱいに咲いた花々のように優しく笑う君と、隣に立つ〝王子様〟の姿を。けれど想像できなかった。したくなかったのかもしれない。
 長い時間君の傍にいて、君のことを考えているうちに、ボクは、ボクと言う存在意義以上の思いを抱くようになってしまったのだから。
 君の額に口元を寄せる。皮膚が触れあい、じんわりと君の熱がボクに伝わる。けれど、それだけ。唇を避けたからじゃない。そうだとしても君は目覚めない。当たり前だ、ボクは〝王子様〟にはなれない。そして、君が目覚めたとき、そこにボクは居ないのだから。
 ここは君の夢の中、安息の場所。誰も君を傷つけないやさしい世界。からっぽの部屋が満たされて、君の心が癒されるまでのつかの間の世界。そしてボクは、その手助けをする治療プログラムに過ぎないのだ。仮初の世界、空白の部屋、ここでしか存在できないボクには君を救うことはできない。ボクの役目は見守ること。進む術を持たないボクは、目覚めをもたらす〝王子様〟にはなれないのだ。絶対に。
 
 いつか夢が覚めた時、君はこの夢を忘れるだろう。そうしたらこの部屋もまた、殺風景なものに戻ってしまう。寂しいけれど、でも良いのだ。君が笑って生きられるのなら、きっと、それでいいのだ。そう自分に言い聞かせた。
 部屋の隅に咲いたポピーの花が、風もないのにゆらりと揺れた。


【無色の世界】

4/19/2023, 10:04:38 AM