生きる意味、なんて言い出せるなら、それは平和で心に余裕のある世であると喜ばしく思う。皮肉ではない。本当に。
自分に「生きる意味」があるかどうか?…という文言を頭の中に置いてみた。途端に自分の周りがボヤッとモヤッとした。どうも「明晰さ」を撹乱する言葉であるようだ。イラッとするね、はっはっは。“おととい来やがれ”と言うのが「正しき返礼」かな。
生きる理由ならある。
それで充分だ、人間の私には。
理由が明らかでないときでも、身体がそれ自身の生きる必要を以て「生きること」を繋いでくれる。
「意味」は先にあるものじゃなく、生きて歩み来た背後に生まれてゆくもの、まさに「靴跡に咲く花」だろう。どんな花が咲くか、その花の響きは何処へたどり着いて、他のどんな花を呼ぶか。その花を以て「意味」とするなら、まあわかる。
「生きる意味」などと「今」に吊して撹乱を呼ぶものは、斬って捨てるが「今生きる自分」の最上だ。
4/28/2024, 3:59:47 AM