hikari

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寂しさ

都会の寂寞の中で忘れてきたもの。
自分。
金と、肩書と、美貌と、人望を追い求めて、
果たして自分は何がしたいのか、どうなりたかったのか、わからなくなった。
みんなが欲しいものが私も欲しいと信じ込んで、その実手に入れたものは、骨一本折れればいくらでも代わりがいるような自分。
何にも自分は喜んでおらず、得た金でまた、自己投資という名の他人の依存を満たすために身を粉にする。くだらぬ身体の毛1本で、自己嫌悪する。この毛がなくなれば、肌がワントーン上がれば、首の角度があとひとつ変われば、私は幸せになれるのだろうか。
きっと、私が正気に戻ってしまったら、自分に耐えられないだろう。
心の弱さででた悪口や、劣等感が刺激して行った最低な行動。「余裕がなかった」という、それ以上でもそれ以下でもない事実から、自分の情けない一面を見つける。
宗教も道徳も全部嘘だ、善良、真面目、誠実なんて紙屑と同じだと主張してしまえば、
本当に心が枯渇しているとき、誰も私を助けてはくれないように感じた。
あの、昔話も童話さえも、悪事をおこなったものは罰があたっている。あの悪人が、救われるためにはどう生きたらいいのか。
「やったことが己に帰る」ということは、行い自体が魔法のように戻ってくるということではなく、
そのようなことをした罪深い自分自身が誰からも相手にされず、そのような人間を救う機会が世にないことが、「己に帰ってくる」のだろう。
私は時折、そのような恐怖心に襲われることがある。
寂しさの中で生きていくときに、出会ってしまう自分も紛れもない自分。誰からも好かれない自分を作り出しているのは紛れもない「私」なのだ。
ホルモンバランスの乱れが、病気か、それとも私の本心なのか。1本減らしてもまだ明るい街灯の下で、私はあの頃の自分に土下座している。

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関係あるようで関係ないような、以下実話の最近あったことです。

とある県に旅行に行きました。
美術館まで行くバスがどれか確認していたとき、すでに並んであった列にあるご夫婦が譲ってくれました。
ご婦人の方が、「あなたが先にいたのだから、あなたが先に並びなさい」と腕を引っ張ってくれ譲ってくれました。その後、バスが到着して、並んであった列とは関係なく乗車することになったのですが、その時ですら、そのご婦人は私の腕を引っ張って、先に座るように促してくれました。
私は、お礼を言って、前方の1人席へ少し小走りに座りました。ご夫婦が後ろの2人席に座った方がよいと思ったからです。
バスに揺られた道中わたしは、涙が出てきました。
席や、並んだ場所を譲っていただく、という優しさがその時は身に沁みました。私は、プライベートも仕事も全てがうまくいかず、イライラして、最低な自分自身に自己嫌悪に過ごす中で、そういった優しさを失っていました。日常で赤の他人に親切にすることのいかに難しいことか、そして、その優しさに心の底から感謝しました。私はいかに、人に対しての優しさをケチっていたのだろうと思いました。
私は、腕一つ引っ張られ、譲ってくれたその一言だけで、特別に心の底から嬉しく、幸せな気持ちにさあせてもらいました。私は、この方が、一言くれた気遣いのために、その方が譲って良かったと思っていただける行いをしたい、私もこのかたのようにそういった優しさを持ちたいと思いました。
先日、お礼として名前も知らぬそのご婦人に向けて、旅行先の新聞会社に投稿したところ、それが載りました。
私は本当に余裕がない時、最低な自分自身でした。でも、あの日席を譲っていただいた時に、人の優しさを感じて変わろうと思ったんです。その人は、私の内面なんて一切知らないけれど。
それが新聞の先のその方にお礼が届くと良いなと思います。そして、どこかの、寂しさでいっぱいで自己嫌悪でいっぱいで、最低な自分自身を抱えてる人に、私も些細な親切を届けられる人になりたいと心から思いました。
あの日バスに乗って込み上げてきた、溶かしてくれるような温かな気持ちは忘れません。

12/19/2024, 4:33:42 PM