ぼんやりとする意識の中で、白みがかった早朝の空から冷たい空気が顔面に覆いかぶさるように落ちてくる。無意識に体が震え、思わず毛布を深くかぶる。暗くなった視界にアスファルトの冷たさが背骨に染みて、体の節々から痛みが走る。
頭上の鳥の囀り、遠くのラジオ体操の音、耳元で行き交う雑踏。世界にとっての日常が、私の耳には雑音として響く。
駅前のパン屋から運ばれてくる甘く幸福な香りは、薄いダンボールの壁をいとも簡単にすり抜けて鼻の下をかすめていく。本能の嘆きのように腹が鳴る。
もう少し、寝ていたい。少なくとも眠っている間は空腹も紛れるし、外の冷たい世界も忘れられる。
穴の開いた毛布の隙間からは、秋の終わりを纏った空気がしつこく入り込んでくる。細い隙間から入り込む風はさらに冷たさを増したようだった。
——こっちへおいで。
ふと足元の方から少女の声がする。雑踏の音が次第に輪郭を失っていく中で、少女の声ははっきりとしていた。
――とっても暖かいよ。
目を開けると、薄桃と群青が入り乱れた微睡みのような空に、薄く白い靄が漂っていた。空の下には見渡す限りの白い丘が広がっている。
刈り込まれた芝生のように白い毛糸が地面を覆い、風が吹く度にふわふわと揺れる。春の陽気のような暖かい風。
私は無意識のうちに、視界の奥に見える熱の塊へと足を運んでいた。
近づくにつれてそれが焚き火の明かりだと分かる。人々が笑いながら暖を囲み、湯気の立つスープを皆で回しながら分け合っていた。
「おかえりなさい」
後ろで先ほどの少女の声がして振り返る。
白いニットのワンピースに赤いマフラー。白い肌にほんのり赤みを帯びた頬。
「ここは毛布の国。寒い世界でがんばった人が休むところよ」
少女の声は、湯気のように優しく辺りを包み込む。
焚き火を囲む輪の中に招かれる。粗彫りの木椀に盛られたスープが回ってくる。一口含むと久しぶりの温かい食事に自然と涙が頬を伝う。
「もう寒くないでしょう?」
隣に座る女性が木椀を受け取りながら言う。
その場にいる人々は、みんな優しい笑顔を交わし合っていた。
誰も命令せず、誰も見下さない世界。
決して拒絶されることのない優しい世界。
あまりにも理想的な――世界。
毛布の国には時間という概念が存在しないのか、そこには朝も夜もなく、常に穏やかだった。
もうどれほどここにいるのか分からない。
過去を思い出そうとしても、記憶はぼんやりとして像を結ばない。それでよかった。冷たい記憶はこの世界に似合わない。
ただひとつ、ぼんやりとした記憶が頭の奥に残る。
――余りものですけど、よかったらどうぞ。
女性の声とともに、通りに背を向けて寝そべる私の後ろから柔らかい香りが漂う。
振り返ると声の主はすでに雑踏に紛れ、駅前のパン屋の紙袋が置かれていた。中には総菜パンがひとつ。冷めきっているのに、胸の内はじんわりと温かくなった。
「ねぇ、ずっとここにいてくれるよね?」
少女の声で我に返る。白い芝生に立ちつくす私の横で、彼女はこちらを見上げていた。
「これ、道に迷わないおまじない」
そう言って少女は赤いマフラーと同じ毛糸を私の小指に結びつけた。
「そうさ、ここにいればいい。ここは君を見捨てない」
別の男が近づき、優しく微笑む。男から差し出された手を取り、再び焚き火を囲む。
「現実のことは忘れなさい。ここにいれば凍えることはない」
隣に座る老人が揺らめく焚き火を見つめながら静かに呟く。柔らかく温かい感触が手のひらへと伝わると同時に、残りの記憶も薄れていく。
そうだな――。
私はもうあの冷たい世界には戻りたくない。
木椀が回ってくる。まだ温かい。スープを一口すすって隣に回す。頬が自然と緩む。
私は小指の赤い毛糸を見つめながら、温かい幸福が喉を通り過ぎていくのをただただ感じていた。
#凍える朝
11/1/2025, 9:31:35 PM