哀愁をそそる
「___だからね、わかった?」
「...はい」
ふと、何か行動を起こす時に一度、それが自分の中で許される行いなのか、誤った判断であるのかを思考する癖があることに気付いた。これまで無意識に行ってきたそれの意味を自分なりに解釈しようなんて七面倒臭いことはするつもりもなかったが、その起源となるであろう出来事に、心当たりが出来てしまった。今回はその事について、自分語りに付き合わせてしまうことになり申し訳ないが、今後の私自身の教訓とするためにも書き記していこうとおもう。
まず前提として、私はそこそこにやんちゃな子供時代を送ってきた。気性が荒く、我も強いため人とはよく衝突し、好奇心から後先考えない行動も多いため怪我は絶えず、お呼び出しを食らったことも数え切れない。その度に親はがみがみと私を叱りつけ、拳が飛んできたことも何度もある。怒られたその場ではしおらしさを見せつけはしたが、やはり親心というのは子供には伝わらず、私は性懲りもない粗相を繰り返してきた。しかしそんな悪童時代は私が何を血迷ったのか、文学なんてものに手を出してからはある意味でより質の悪いものへと変わる。今でこそ論破厨なる言葉があるが、それに近しい、言葉によって人に干渉することの愉しさに私は取り憑かれていた。悪餓鬼が悪知恵を手に入れた末路なんて、語るに及ばないだろう。私は放つ言葉の重みや責任を理解することなく、得たばかりの力を思うがままに振り回した。そこに思春期なんてものが重なってしまえば、後の出来事は必然でもあった。私は、超えてはいけないラインを犯してしまった。
人を傷つけてはいけませんよ。そんなの今どき道徳の教科書にだって載ってないだろう。だって、他人を無闇に傷付けるのなんて、後に何があるかわからない。それが社会的地位を失うことなのか、自己の理念に背くことなのか、金銭的な問題なのかはさておき、下手を打てば自分が不利になることは明白だ。なら、その損得が発生しない、或いは発生したとしてもある程度の温情を与えられる相手であるならばどうか。答えは簡単、害することへの躊躇いが曖昧になる。もっと身近な言葉で表現するとすれば、甘え、が生じるということだろう。今でも後悔してる、といえば安っぽいドラマか何かの独白のようで言葉の軽さに辟易するが、それでも私の人生に後を引くようなものであることは確かだ。
今思い返しても、出来事のきっかけだとか、細かい内容は思い出せない。それでも的確に人の嫌がることを口にすることだけは達者な私が、その時も的確に相手の心を抉ってしまった事だけは明確だ。私は、私の口走った言葉で、親を泣かせてしまったことがある。
だって、思いもしなかったのだ。自分の言葉には意味もなく、重みもまたなく。誰かを傷付けるような力なんて、本当はないんだと思い込んでいたのだ。ただ、目の当たりにされたくない事実を突きつけられた愚か者が、勝手に事実を受け入れなくて悲劇ぶっているだけだと、自分はそう嘲笑ってきたのだ。けれど、あの時の親を傷付けたのは、確かに私の言葉によるものだった。私にとってある意味神に等しい、絶対的な存在である親が、私の手によって揺るがされることなどないと、盲目的に信じていた。それがすっかりと崩れてしまった。ただ、親もただ1人の人間にすぎなかったことだけが、事実から目を逸らしてきた罪のように付きまとう。あの時の聞いた事のない悲痛な声と小さな姿を、一生忘れることはなく生きていくのだろう。
11/4/2023, 6:16:40 PM