小学校に入る前だったと思う。
月にウサギがいると聞いて、父に肩車をされながら見上げた夜空。
真っ暗な夜空に輝く黄色い満月は、ウサギなんて見えなかった。
月の影は地域によっては、カニに見えたり女性の横顔に見えたりするらしいと、隣を歩く母が教えてくれる。
それでもなにも見つけられなくて、俺は反論した。
月に模様なんてどこにもない、と。
ツヤツヤとした黄色一色のきれいな満月は、むしろミルク饅頭ようだった。
両親も俺自身も知らない間に落ちていた視力。
眼鏡をかけた生活は煩わしく思う反面、世界をキラキラにしてくれた魔法のアイテムだった。
*
彼女と夕飯を外ですませた帰り道。
のんびりと街路樹を歩きながら、ふと空を見上げた。
くっきりと輪郭を描いた大きな満月が空に浮かんでいる。
「今日はひときわ月がきれいですね」
視線を月から彼女へとずらす。
俺の言葉を聞いた彼女は、本当に面倒くさそうにして顔をしかめた。
「……」
え、どういう感情?
世間話にもならない会話をする気分ではなかったのだろうか。
丸々とした大きな月をもう一度見上げた。
まぁ、デカく見えるのもしょせんは目の錯覚でしかないし、月は月だもんな。
鈍ちんな相手に情緒を求めても仕方がない。
いくばくか失礼なことを思い抱いていると、彼女がわざとらしくため息をついて月を仰いだ。
「あー、はいはい。このまま時が止まればいいですねー」
「はい?」
脈絡のない返事に首を傾げていると、痺れを切らした彼女が声を荒げる。
「あのさ、本っっ当に! そういうの、もういいから」
そういえばつい先日、彼女にかまってもらうために「そういう」言葉遊びで彼女への思いの丈をぶつけたばかりだった。
「あぁ……」
かの有名な文豪が「I love you.」を「月がきれいですね」と奥ゆかしく和訳した。
俺の言葉を彼女はそう捉えたのだろう。
プリプリと警戒心を上げて防御壁を立てる彼女がかわいくて、つい口元を緩めた。
「すみません、今のは本当に他意はなかったです。あんまりにも月が立派だったんで、世間話のつもりでした」
「ウソぉっ!?」
「本当ですって」
疑いの眼差しを向ける彼女に、両手を上げて抵抗の意思がないことを告げる。
互いに数秒、無言で見つめ合ったあと、彼女が頭を抱えて地団駄を踏んだ。
「最っっっ悪!!」
「そもそも。そういう駆け引きは嫌いでしょう」
「うん。好きじゃない」
こんなくだらないやり取りでさえ、ストレートに「嫌い」と言えない彼女がいじらしい。
乱れた髪の毛を整えるように、彼女の頭を撫でた。
しかし彼女の気はすまないのか、唇を尖らせて拗ね散らかす。
「……でも、この間はしてきたっ」
「あれはあなたが暇そうにしてたので、つい。出来心でした」
「なん、だそれ……っ」
覚えはあるのだろう。
彼女は悔しそうにギリギリと歯を食いしばった。
「でも、面倒がる割りにはきちんと応えてくれるんですね?」
俺の記憶が正しければ「時が止まればいいのに」は「今、この幸せの瞬間が永遠に続けばいいのに」という意味があったはずだ。
こんな些末なやり取りをする時間でさえ、彼女は大切に思ってくれている。
「え? だって好きなことには変わりない……もん」
「……」
耳に触れたり毛先をいじったり落ち着きなさそうにしているが、平静を取り繕う余裕はあるらしい。
照れくさそうにしながらも、俺への好意をためらいなく言葉にできるようになったあたり、彼女との時間の流れを感じた。
……俺は全然、言われなれないんだけどな。
彼女の告白を受けるたびに、彼女への想いを拗らせている気がする。
月明かりや街灯の光を受けて、彼女の瑠璃色の瞳は星よりも神秘的にきらめいていた。
幻想的に光を揺蕩わせる瞳に魅せられながら、俺は彼女の想いに応えていく。
「ありがとうございます。俺も好きだし、あなたと重ねていく時間は幸せですよ」
彼女の腰を引き寄せて距離をつめた。
シトラスの香りが近くなり幸福感が胸を満たす。
「ねえ、……腰は、やめて」
「俺のこと好きならがんばってください♡」
「さすがに調子乗りすぎ」
服の上から骨盤に這わせた指は、容赦なく彼女に叩かれた。
代わりに互いの指先を絡めて街路樹を歩く。
月の光を浴びた彼女の白い腕は、少し熱を帯びていた。
『君と見上げる月…🌙』
9/15/2025, 2:05:21 AM