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「胸の鼓動」

どうしてなんだろう。さっきすれ違っただけの人なのに気になって仕方がない。通り過ぎるときにほんの一瞬だけ視線が交錯した。ドクンと音が聞こえてしまうほど心臓が高鳴る。

記憶を辿ってその姿を探すが、全く浮かばない。今生で出会った人ではないのだろう。今生以外の記憶はない、はずだ。記憶というものが脳内にあるのならば。

一般的に輪廻をくり返す人間の記憶は今生限りと言われている。前世や前前世など違う人生を生きた記憶は蓄積されない。生命とは一度限りであり、死んでしまえば肉体はなくなるのだから、魂もそれに順応して一度限りの人生を生きるように進化してきた。

前世からの因縁で争いが絶えなかった歴史を思えば、それも当然と言える。しかしどれだけ進化しようとも、非常に強い因縁を消し去ることなど誰にもできはしない。

前世を信じない人々は争いの理由を、歴史や経済や独裁者の振る舞いなどに見出し解決策を講じようとする。そんなものは通用しない。争いの原因は前世の因縁であり、その記憶はないのだから、誰にもわからない。だから争いはなくならない。

先程感じた胸の高鳴りは何だったのか、考えても仕方のないことだが、一つだけ方法はある。前世の因縁を読み取る特殊な能力を持つ者に依頼するのだ。因縁屋と言われている。

その方法はある一族が一子相伝で守っているという。前世の記憶はないとされる世の中ではそれを必要とする人間は少なく、もはや風前の灯とも聞く。

その後は何事もなく、このまま何もせずやり過ごしてしまおうかと数週間を過ごした。それはまた突然やってきた。

満員とまではいかないが、混んでいる電車の中で突然、胸の高鳴りを覚える。一瞬だけ交錯した視線の持ち主を探すが、それらしき人はいない。

駅に着くたび人が少なくなると、いつの間にか胸の鼓動も治まっている。3度目があれば因縁屋に依頼してみようか。戯れに因縁屋を検索してみると、依頼を受け付ける専用のアドレスがある。思わずタップしそうになるが、思いとどまる。いや、まだだ。

単に病気なのでは?と思いつき、次の休みには病院を訪れようと家路を急ぐ。誰も待ってはいないのだが…前世で夫婦だった人と運命的に再び出会うとかないかな。胸の鼓動はそのせいだったらいいのに。

9/9/2024, 9:47:44 AM