冷端葵

Open App

夜明け前

 夜明け前と形容される時間帯になってもう40年になる。
 オレンジの差し色が美しい紺色の空。地球の裏側でもこの空が見えているというのだから驚きだ。40年前のある瞬間、全ての人が目を閉じ眠りについたほんの一瞬。それが世界の切り替わる合図となった。自然科学が明らかにしてきたものを嘲笑うかのように、世界の全てが長い長い夜明け前を迎えた。
 長期的な日照不足によって人々の骨の密度は低下し、屋外で作物を育てることが難しくなり、抑うつ症状を訴える人が増え、そうは言っても世界は適応し「正常」の範囲内で回っていた。
「なぜ世界は回り続けるのですか」
 世界中の電子端末から突如人の声が鳴る。男とも女とも分からない機械を通したような声は、誰のものとも言い難く、誰もが自分の声と錯覚した。
「ようやく世界を夜に閉じ込めたのに」
 機械的な音声の中に失望が見て取れる。人々は彼――あるいは彼女の次の言葉を静かに待った。
「明けない夜はないなんて、苦しいでしょう」
 慈愛に満ちたその言葉に人々は共感し、同時に憤慨した。夜明けを目前に控えながら永遠にそのときが訪れない空に、社会はもう疲弊してしまっていた。
「でも、夜でも世界は回ってしまうのですね」
 その声の主もどこか疲弊したように言い放った。しばらくの間、世界の中から声が失われた。機械的な声は沈黙し、人間たちは端末と静かに睨めっこしていた。人間たちは次第に声を漏らし、世界にざわめきが広がっていく。
「結構です。もう満足です。お手数をおかけしました。皆さま目を閉じてください。もとに戻しましょう」
 機械の声はそう言った。人々は疑い半分に目を閉じた。全ての人が目を閉じたほんの一瞬、その瞬間にまた世界は切り替わった。
 人々は喜んだ。40年ぶりに朝が来て、昼が来て、夕暮れが来た。しかし、その喜びも長くは続かない。結局世界は朝に慣れ、喜びも悲しみもなくただ正常に回り続けた。

9/14/2024, 10:09:22 AM