撫子

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『とりとめもない話』

 暇だから何か話してよ、と傍らの友人が退屈そうに伸びをする。
 それを横目で見やり、そっと細く息を吐き出した。まるで目の前にある最後の灯火を慮るような、強ばって縮こまる吐息の存在に、幸か不幸か瞼を閉ざした呑気な友人は気付かない。
「だから何と言いたくなるような、ありふれた話で良ければ」
「いいよ。頭を使う話をされても困るから、眠たくなってしまうような話を聞かせて」
「それじゃあ、ある猫のお話をひとつ」

 ──その猫は新月の夜のような、深い漆黒の毛皮を纏っておりました。猫は随分長生きでしたから、多くの人間たちが彼女を目にすると、決まって嫌そうに眉を顰める理由すら知っていました。
 彼女は自由をこよなく愛していましたが、それと同じくらい大切にしていた存在がありました。それは彼女と姿は異なれど、不思議なほどしっくりと似通った魂を宿した、ひとりの王女でした。
 王女は綺羅びやかな衣と豪華な部屋を持っていましたが、好きなときに好きな場所で思うままに眠る自由を持ち合わせていなかったので、猫はそれを憐れに感じ、せめて慰めるつもりで王女に度々寄り添っていたのです。ふたりにとって、とても満ち足りた時間でした。
 けれどある夜、いつも通りに周囲の目を盗んで、猫の友人をベッドの中で抱き締めながら微睡んでいた王女は、けたたましい音に驚いて身体を起こしました。周囲に迫る荒々しい足音や、何かが倒れぶつかる物音に怯えた王女は、慌てたようにただひとりの友人を胸に抱き、息を殺して立派なクローゼットの中に蹲りました。
 暗闇の中、束の間の安息の合間で恐怖に震える王女に、聡い猫は頭を押し付け、宥めるように冷たい頬を舐めます。それにわずかに安堵してか、王女は不器用に微笑みました。
『わたし、今すぐ猫になりたいわ。そうしてあなたのように美しく夜の果てまで駆けて行きたい。ねえ、ここから出て逃げていいのよ。あなたは賢く自由なのだから、どうするべきかもう分かっているはず』
 ですが、猫は王女とともに在ることを選びました。彼女は自由でしたから、ひとりで逃げ出すよりもそうしたいと強く願ったのです。
『そろそろお別れかもしれないから、最後にお礼を言うわね。出逢ってともに過ごしてくれてありがとう、わたしの半身。いつかきっとまた逢えると信じましょう。その時は、猫としての生き方を教えてちょうだいね』
 外では絶えず大きな音や怒声が飛び交い、何かが燃える臭いもしていましたが、一人と一匹はどこまでも静かに、ただ互いの体温を慈しんでいました。クローゼットの中は、今や彼女たちにとってミルクの匂いに包まれた柔らかな寝床であり、どこまでも広がるあたたかな草原ですらあったのです。

 ふと隣を見れば、案の定いつからか眠りに落ちていたらしい友人の顔があった。どこまで聞いていたのやら。
「猫になりたがっていた王女の願いもむなしく、なぜか猫の方が人間として生まれてしまった、そんなどうしようもない結末すら聞き届けようとしないなんて、随分と身勝手になったこと」
 何にも脅かされない健やかな寝顔は、かつての不遇の王女とは程遠く、寂しくも満ち足りた気持ちで友の肩に頭を寄りかける。
 私はまたいつだって自由に猫に生まれ変われるだろうから、姿形はなんだって構わない。ただ、その寝顔が穏やかでありさえすれば、私たちは紛れもなく幸福なのだ。

12/18/2023, 11:16:55 PM