星が一つ、流れていく。
一瞬で空の彼方に消えた星の尾の跡を見上げながら、少年は残された光の煌めきに手を伸ばした。
砂粒ほどの微かな光。手の平で転がし、ポケットから小瓶を取り出して中へと入れる。
軽く振れば光が跳ねる。しゃらしゃらと澄んだ音に混じり、楽しげな子供の笑い声が微かに聞こえた。
「今回溢れたのは、また随分と温かな残り香だね」
呟く声は穏やかだが、その表情はどこか陰りを帯びている。小瓶の中の光が紡ぐ幸せの、その終わりを知っているかのように。
小瓶の口をそっと撫で、少年は道の先の暗がりへと視線を向けた。近づく足音と共に、仄かな月明かりが人影を浮かばせる。
「こんばんは。こんな夜更けに女の子が一人でいるのは感心しないよ」
あえて明るく声をかければ、近づく人影の足が止まった。
女の子、と少年は言うものの、目の前の少女は明らかに少年よりも年上だった。無表情ながらどこか暗い目をして、何も言わずに少年をただ見つめている。
「君も噂を信じて、こんな夜遅くに家を抜け出してきたんだろうけれど残念だったね。何でも願いを叶えてくれる星なんてここにも、世界のどこにもないよ」
「――知ってる」
少年の忠告に少女は淡々と答え、空を見上げた。その瞳はやはりどこか暗く悲しげで、しかし救いを求めて星を探しているようには見えなかった。
「別に願いを叶えてほしい訳じゃない。ただここなら、言葉を置いていっても許される気がしたから」
「言葉?」
「そう。もうすぐここを出ていくから……本当は何も残さないでいこうと思ったけど、偶然願い星の噂を思い出したから」
願い星とは、この場所で見れる流れ星に関する古くから囁かれている噂だった。新月の夜、この場所で流れ星に願い事をするとその願いは叶うという、どこにでもあるような噂。それでも新月になると、ここを訪れる者が今も後を絶たない。
「誰かの願いで溢れているこの場所なら、願いじゃない私の言葉も置いていけるような気がした」
確かにこの場所で多くの人々が、流れ星に願いを託そうとしてきた。少女の言う通り、ここには人の願いで溢れているのだろう。
肯定も否定もしない少年に、少し安堵したのだろうか。夜空に浮かぶ三日月を見つめ、少女はほんの僅か表情を綻ばせた。
「今日は月が出ているから誰もいないと思ってたから、正直意外だった」
「おじゃまかな。終わるまで離れていようか」
空を見上げたまま、少女は緩く頭を振る。肩で切りそろえられた髪が揺れ、月明かりを反射して星のように煌めいた。
「ただの独り言だから、あなたが気にならないのであればここにいればいい」
そう言って、少女は小さく息を吸い込んだ。一瞬の沈黙の後、静かに少女は語り出す。
それは二十にも満たない少女の、生の全てだった。
庭に咲く、四季折々の花の美しさ。友人との他愛のない会話。学校の授業の内容や、通学路で起きた些細な出来事。
少女が見て聞き、そして感じた日々を文字通りこの場所に置いていこうとする。そんな言葉だった。
「この街を嫌いになったわけではない。友達と別れてしまうのはとても寂しい。それでも、私の全部を置いていく……置いて行ってもいいんだって、教えてもらったから」
穏やかにそう締めくくり、少女はそっと息を吐き出した。視線を下ろし、少年を見つめて頭を下げる。
それに少年は何も言わず、ゆっくりと少女の側に歩み寄った。
「全部置いていくって決めたのに荷物になるかもしれないけど、ひとつ餞別にあげるよ」
首を傾げる少女の手に、小瓶を握らせる。瓶の中の仄かな煌めきを見て、少女は困惑に眉を顰めた。
小瓶の中身が、流れ星から溢れた光だと少女は知らない。ただ柔らかな煌めきに、暫く目を細めて見入っていた。
「――あ」
不意に音が聞こえた。しゃら、という澄んだ音に混じる笑い声。
見つめる小瓶の中の光が瞬いて、とある刹那の光景を少女の脳裏に浮かばせる。
それは、幸せそうな家族の日常の一コマ。
両親と幼い娘。花の咲き乱れる庭で、誰もが微笑みを浮かべていた。
見つめる少女の頬を滴が伝う。かみ殺しきれなかった嗚咽が、微かに漏れた。
「さっき流れた星から溢れた光だよ。君のお母さんが置いて行ったんだ」
「おかあ、さん……?」
「ここに降る星は、誰かの心残りだから」
赤い目を瞬かせ、少女は空を見上げた。
煌めく無数の星々に息を呑む。時折流れる星が残す微かな光の瞬きに切なさが込み上げ、少女は無意識に小瓶を胸に抱いた。
「私……」
ぽつりと少女は呟いた。涙に掠れた声は、静かで凪いだ響きをしていた。
「お姉ちゃんになって、お母さんがいなくなって、お父さんが私を見なくなって……仕方がないって思ってる。思ってるから、置いていってもいいのか迷ってる」
そう言いながらも、少女は留まることはないのだろう。
悩み、苦しんで出した答えだ。小さな小瓶の中の思い出一つで、今更決意が揺らぐことはない。
「全部置いていくつもりだったけど、これは持っていくことにする……私はちゃんと愛されてたっていう、確かな証明だから」
小瓶を胸に抱きしめ、少女は少年を見つめて微笑んだ。もう一度深く頭を下げ、ゆっくりと来た道を戻っていく。
「行ってらっしゃい。後悔のないように」
その背を見送って、少年は静かに目を伏せた。
その足元を風が通り抜けていく。その風を追うように、地面から仄かな光が浮かび上がる。
ひとつ、またひとつと増えていく光。ふわふわと宙を漂い、やがては空へと上がっていく。
「かわいそうに」
呟く言葉は、少女に対するものではない。少女に置いていかれるすべてに対してだ。
少年の足元で佇む他よりも暗い光が、少年の言葉に小さく震えた。地面に繋がれたままの光は、一瞬だけ苦悩する男の姿を浮かばせ消えていく。
「かわいそうにね。その思いはもう浮かぶことはないだろう」
後悔、あるいは執着。空に還るには重すぎる。
小さく息を吐いて、少年は空を見上げた。
高く上がる光は空に解け、周囲の星を煌めかせていく。
少女の置いていった言葉、思いがすべて、正しく空へ昇華され星を美しく煌めかせる。
最後の光が空に解けたのを見届けて、少年はふわりと微笑んだ。踵を返し、その場を去っていく。
浮かぶ光はない。光は空へ還り、還れぬものは再び地の底へ沈んでしまった。
暗い大地を、満点の星と三日月が淡く照らしている。
星が一つ、流れていく。
溢れた光を大地に落とし、誰かの思いが流れていく。
20260315 『星が溢れる』
3/16/2026, 11:00:01 AM