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 僕は靴紐が結べなかった。

 自分から見て正面じゃないと、どうも蝶々結びが理解できなくて。

 けれど今の世は便利なもので、

 靴紐なんて無くたってそれっぽく履ける靴なんてたくさんあるし、結ぶ必要のないゴム紐だって、百十円で手に入る。僕のコンプレックスとも言うべき悩みは、硬貨二枚で容易く解決できてしまう。

 それでも、この世はまだまだ堅っ苦しくて。

 ピカピカの革靴の上で乱れた黒い、細い、ただの紐を

 僕は眺めて、祈るしかない。


 ほどけませんように。


 その願いも虚しく磨き上げられた床の上で奴らが乱れたとき、ふっ、と甘い匂いがする。

 蕩けるように微笑んで、僕の足元に膝をつく。

 その頭頂部に、柔らかな髪に、触れたい衝動を手元のワイングラスを握り込んで抑えるのだ。

 革越しの僅かな感覚と、締めつけられる指先の痺れ。

 それを見下ろす湿った視線に気づくはずもなく、小さく息を吐いて立ち上がった微睡み。


 僕が僕でなければ、その後を追えたのだろうか。



 つまらないことを、動けない足元に問う。



 『靴紐』

9/17/2025, 4:46:40 PM