あにの川流れ

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 石畳はところどころ剥がれていて、雨が降っているせいで水溜まりが黒く沈んでいた。
 コツ、コツ、コツ、と気持ちが早っている靴音。
 アーチを潜った路地は昼でも薄暗い。壁に貼られた古いポスターは風にめくれ、窓辺の花は枯れていて代わりに鉄格子が目立つ。
 誰が描いたのか、下手くそな落書きだって。

 「あ、こんにちは」

 すれ違った中肉中背のひと。
 鬱陶しそうに目だけがちらりとぼくを見たとき、その首筋がズレた。ごとりと重いものが水溜まりに落ちる。湿ったぬるいものがぼくにかかって、咄嗟に逃げ出した。
 そのひとは冷たい雨のなか、水溜まりに首ごと突っ込んで。きっとあとで回収されておしまいなのだろう。
 雨上がりはきっと土と鉄のにおいがする。
 その前に家に帰ってしまいたいとは思うけれど。




****
 「それは幸運でしたねえ」
 「幸運、かなぁ。災難じゃあなくて?」
 「巻き添えを喰らわなくてよかったでしょう?」
 「……まあ、そう、かも」

 そうでしょうとも、そう笑ったきみがタオル越しに撫でてくれる。消毒のにおいが強いそれにはべったりと赤黒いものがついていたけれど、きみの手のひらがあたたかくて安心してしまう。

 消毒のにおいと清潔感に閉ざされたこの空間はちぐはぐしている。薄いセージグリーンは陽なんて当たらないのに褪せていて、こすれたリノリウムの床も清掃されているのにつやがない。低い天井にある蛍光灯はたまに切れかかっているのを見かけるし、何よりも、きみがいるベッドがギイギイと文句を言うのがよく聞こえる。
 端がほつれたカーテンが揺らぐ窓際にも、やはり鉄格子があった。
 丘の上にあるここは街が見渡せるはずなのに、きみがカーテンを開けているのを見たことがない。

 「…ねえ、こわかったんだよ。まだ慰めて?」
 「あらぁ」

 随分細くなった腕をたどって手を重ねる。骨ばって、血色も、血の巡りも悪い肌。
 きみの身体はどこもかしこもガタがきていた。
 最近は車椅子だってこの一室にはない。

 「知らないひとなのでしょう?」
 「でもあいさつした」
 「律儀にするから。それで心を病むのに、おばかさんですねえ」
 「みんな知らないの。ひとって殺したら死んじゃう。そうしたらもう二度と動かないのに」
 「死んでみないと実感しないものですよ。さ、今日はジャケットをあげますから、上着は棄ててらっしゃい」
 「返すよ、ちゃんと」
 「わたくしに? 寝間着しか着ませんもの」

 モスグリーンのジャケット。くすくすと笑うきみが一等気に入っていたもの。これも、きっと遠くない日に、きみの気配が消えてしまうのだろう。
 もうそんなものばかりだ。




****
 遠くでクラクションが鳴っている。
 きっとすぐにサイレンもやってくる。

 「…ね、ちょっとうるさいね」

 自分の声かと疑うほどかすれていた。
 この部屋には時計もカレンダーも置いていないし毛布もないからなんだか、ずっと寝た気がしない。
 肩に羽織ったモスグリーンのジャケット。きみの髪がまだ絡んでいる気がした。手に握るハンカチも、渡されたときの手指がともなった重さがある気がして。
 膝のトレーナーも、足許のこれもそれも。

 きみのために誂えた長細い寝台で、きみはやっぱり、苦しげもなくしている。
 それに寄りかかれば、かすかに、ギィ…と鳴った。
 ここに、確かにここに。
 ぼくはまだ、喪っていない。



#ここにある



8/28/2025, 6:15:29 AM