# 虹の架け橋
買い物の帰り道、突然降り出した雨に濡れながら慌てて家に駆け込んだ。傘を忘れていたのだ。
濡れた髪をタオルで拭きながら、ふとベランダの窓を見ると、雨が上がって薄い雲の隙間から陽光が差し込んでいる。
そして東の空に、淡い虹が現れていた。
「きれい...」
思わず呟いた声は、誰にも届かない。
長男は大学入学を期に一人暮らしを始め、長女も来年は高校卒業。夫は相変わらず仕事に追われ、帰宅は深夜になることが多い。
四十三歳になった私にとって、この静寂はびっくりするほど久しぶりのものだ。
子どもたちが小さかった頃は、買い物一つするのも大変だった。長男をベビーカーに乗せ、長女の手を引いて、重い荷物を持って歩く日々。
雨に降られれば二人とも泣き出して、家に着くまでが一苦労だった。
それがいつの間にか、こんなにも静かになっている。
虹は次第に濃さを増し、完全な弧を描いて空に架かった。
私はベランダに出て、手すりに両手をかけて虹を眺めた。
子育てという長い橋を渡り切ったのだろうか。長男が生まれた日のことを思い出す。
初めて抱いた小さな命の重さ、夜通し続いた泣き声、初めて「ママ」と呼んでくれた日。長女の時も同じように、毎日が驚きと不安の連続だった。
「お母さん、ただいま」
長女の声が玄関から聞こえてきた。私は慌てて部屋に戻った。
「おかえり。虹が出てるよ」
リビングに入ってきた娘は、制服が少し濡れている。私と同じように雨に降られたようだ。
「本当だ。きれいだね。お母さんも濡れちゃったの?」
「傘を忘れちゃって。あなたも大変だったでしょう」
娘は改めて私を見、照れたように笑った。
「でも、なんかいいね、こうやってお母さんと虹を見るの。
昔もこんなことあったような気がする」
へへ、とはにかむ笑顔。私の胸に温かいものが広がった。
子どもたちは確実に大人になっている。でも時々、こうして子どもの頃の記憶を大切にしてくれる。
「お腹すいてない?濡れた服も着替えなさい」
「うん、ありがとう」
キッチンに向かいながら、私は窓越しに虹を見た。虹はまだそこにあった。子育ての橋は終わったのではなく、形を変えて続いているのかもしれない。これからは母親として、一人の女性として、新しい橋を架けていく時なのだろう。
ほんの少し寂しいかな……と思いつつ、紅茶を入れる。今度は自分の時間も大切にしながら、家族との時間も紡いでいこう。そんな風に思えた雨上がりの午後だった。
やがて虹は黄昏の中に溶け、夕闇が家を包んだ。
夜遅く、夫が帰宅した。
「お疲れさま。今日は雨、大変だったでしょう」
「そうそう、でも帰りに虹が見えたんだ」
夫は嬉しそうに言った。
「久しぶりに見たよ。君たちと一緒に虹を見たのはいつだったかな」
「覚えてる?子どもたちが小さい頃、家族で公園にいた時に虹が出たことがあったでしょう」
「ああ、あの時か。みんなで手を繋いで見上げたんだよね」
夫の顔に懐かしそうな笑みが浮かんだ。
遠い記憶の中で、私たちは確かに同じ虹を見ていた。そしてまた今日、違う場所で同じ虹を見た。
──記憶の架け橋なんて洒落てるわね。
星が一つ、また一つと現れ始めた夜空の下で、私たちは静かに微笑み合った。
9/21/2025, 4:05:26 PM