『二人ぼっち』
彼女と同棲を始めるために、彼女は長年住んでいたマンションを引き渡した。
がらんどうになった彼女のマンションの部屋。
5年間、彼女が過ごした形跡を消し去った。
「……なんにもなくなっちゃった」
彼女の小さなつぶやきは、遮るものがなくなった空っぽになった部屋に強く響く。
リビングだった場所で足を止めた彼女の肩を抱き寄せた。
「寂しくなっちゃいました?」
彼女の言葉を受けて返した俺の声も、無駄によく通った。
ふたりぼっちになった部屋で、彼女は気丈にも首を横に振る。
「んーん。大丈夫」
「そうですか」
彼女は状況と心境に時差が生じるタイプだ。
長年連れ添った場所を離れてしまった切なさを、あとになって感じるかもしれない。
必要に迫られたとき、俺に寄りかかれるようにしておこうと密かに誓った。
リビングを見回したあと、彼女は背筋を伸ばして部屋を出る。
玄関の鍵を閉めて、小さく頭を下げた。
「長い間、お世話になりました」
5年間、彼女を支えてくれてありがとうございました。
口にするのは小っ恥ずかしく、彼女に倣って会釈するだけに留める。
顔を上げたあと、俺たちはマンションの敷地から出た。
今日は日差しが暖かい。
青銀の彼女の髪の毛を、穏やかな風がさらった。
キラキラと細い髪の毛に光が乱反射して思わず目を細める。
「今日からよろしくね?」
後ろを歩く俺に向き直った彼女は、春先の門出に相応しく、期待に満ちたきらめいた眼差しを向けた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。いたらないことがあったら遠慮なく言ってくださいね?」
「いたらないこと……」
そんな、無理やり見つけてこなくてもいいんだけどな。
とはいえ、うーん、と顔に指を当てて考え込む姿が今日もかわいい。
「あっ」
そんな彼女に見とれていれば、なにか思い出したのか閃いたか、勢いよくパチンと手を叩いた。
「私、来月は忙しいから、荷物はさっさと片づけておいてよねっ!?」
ひと足先に社会人となった彼女は、既に来月の予定が立っている。
同棲生活が落ち着く間もなく、海外遠征の予定も入っていた。
「特にグッズ! あれは早急に自分の部屋に押し込めてっ!」
先ほどのセンチメンタルなか細い声とは打って変わった弾んだ声に、俺の気も緩んでしまう。
「ふっ、はぁーい」
「ねえ。それ、ホントにわかってる?」
「わかってますよ。推しのグッズを捨てられたりでもしたら困りますから、家具の配置を終えたら早速整理します」
普段より少し浮かれた会話を弾ませながら、俺たちはともに生活する新居へと向かうのだった。
3/22/2026, 9:18:02 AM