マトリカリア

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 ピアノの旋律が耳にすべりこんできた。
 行きつけの喫茶店。昨日買った文庫本は「ページをめくる手が止まらない!」というあおりに反して二杯めのコーヒーがなくなりかけてもちっとも先に進んでいない。ちょっと休憩、と背もたれに寄りかかった。
 懐かしい、「恋はみずいろ」だった。ヴィッキーの原曲やカバーよりもポール・モーリア版のほうが私にはなじみ深い。イージーリスニングの神さまは偉大だ。
 思考が小説から逸れていく。認めたくないけど、やっぱりどうにもつまらない。映画化するっていうから期待したのに。

 映画といえば、昔はいい邦題をつけていたと思う。「ボニー&クライド」を「俺たちに明日はない」とか。「リトルウィメン」を「若草物語」とか。「最近のやつはなっとらん」って、映画好きの父がブツブツ言っていたのは、あれは「インファナル・アフェア」を観に行ったときだったか。
 その点「恋はみずいろ」は秀逸だ。Love is blueを、愛は青、じゃなく恋はみずいろ(しかもひらがな)と訳すところにセンスを感じる。

 そういえば子どもの頃祖母の家に行ったとき、庭の片隅に小さな水色の花がひっそりと咲いていた。幼い私はそれを忘れな草だと思い込み、自作のポエムとともに宿題の日記に書いた。押し花にしたいと言ったらおばあちゃんは首をかしげてひと言、「キュウリ草なんか珍しくもなかろうが」。そんなわけないと図鑑をひろげ……わかったのは、同じグループの植物ではあるけど葉っぱも生える場所も違う、別の花だという事実。「忘れな草」から「キュウリ」への落差に大いにショックを受けたものだ。

 あの花への恋ははかなく散ったわけだけれども。
 恋はみずいろ。水色は青よりも明るい。傷心や恋わずらいだけじゃなく、淡い片思いとか、好きな人の態度に一喜一憂したりとか、そういう明るさや爽やかさも感じさせる曲だと思う。
 メロディが変わる。「悲しき天使」「蒼いノクターン」……そのたび思考はふわふわ宙に浮かぶ。
 ああやっぱり今日はだめだ。本に集中できない。もういっそ開き直って、優雅なクラシックをBGMに心ゆくまで物思いにふけろう。そう決めて、コーヒーのおかわりを頼むために手を挙げた。



(勿忘草)



 ユーキャンの「ちいさな花言葉・花図鑑」という本、おすすめです。実物より美々しい気もしますが、きれいな切り花の写真集という雰囲気です。

2/3/2024, 9:58:25 AM