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「はい、かれこれ10年間、こうして意味がないことをしております」
 楽しそうに語る彼は、トイレの便座に釣り糸を垂らしている。
 私は、世にも奇妙な意味がないことをしている男がいるときき、インタビューをするため山奥の病院までやってきた。
 彼は噂に違わぬ、意味の無さである

「子供の頃本で読んでからずっと頭に残っていたのです」
 そう言って、垂らした釣り糸を見る。
「なんの本なのかもう覚えていません。作者が知り合いの医師から、精神病院では釣りをする患者がいることを聞いたそうです」
「それを真似たのですか?」
「ええ。ですが、面白いのはここからです。
 ある時、担当の医師が“釣れますか”と聞いたところ、“トイレで釣れるわけがないでしょう”と返していました。
 患者は釣れないと分かってて釣りをしていたのです」

「世の中色んな人がいますね。しかし、その人は実在するのでしょうか?」
「そこまでは分かりません。
 でも子供の頃の私は感銘を受けました。人は自由なのだ、と。
 私も自由な人間で在りたいと思い、こうしてトイレで釣りをしています」
「なるほど。私もその気持ちは分かります」
 私は彼が羨ましい。
 私も自由な人間になりたかった。
 しかし現実は厳しく、こうして不自由な人間になってしまった

「私は死ぬまで意味がないことをすることにしました。人生は夢のようなもので、全て意味がないものですから」
「なるほど。深いお言葉です。とても有意義な時間でした。‥あれ、釣り竿引いてますよ」
「馬鹿な。釣れるはずがっ」
 彼は驚いて立ち上がろうとすると、服に釣り竿が引っかかる。
 その勢いで釣り竿が跳ね上がり、獲物が釣り上がった。
 そこにあったのは、一匹のドジョウであった。

 近くにいた病院の職員が、それを見て驚く。
「こいつは‥十年前からこの便器のつまりの原因が分からなかったのですが、コイツが犯人だったんですね」
 職員は彼の方を見る。
「十年間、あなたはつまりを直そうとしてくれてたんですね。我々は、あなたを勘違いしてました。職員を代表してお詫びいたします」
 職員は綺麗な謝罪のお辞儀をした。おそらく本心なのだろう。

 しかし彼の顔は絶望に染まっていた
 無理もない
 なぜなら彼が続けてきた意味がないことが、ここに来て意味を持ち、彼の十年間が意味がないことになってしまったのだから。

11/9/2023, 9:21:36 AM