古菱

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お題:どこにも書けないこと

 私の恋人には婚約者がいる。
 スマホの画面に入力したその一文、あとはボタンをタップするだけとなった段階で指が止まる。そして文字をすべて消去した。スマホを鞄に仕舞い、タクシーの窓の外を流れていくネオンをなんとなく眺める。
 どこにも書けないことを教えてください。
 匿名掲示板で偶然見つけたトピックが気になっただけだ。好きな人がいる、悩みがある、いろんな人がいろんなことを書き連ねていた。返信はあったりなかったり。書き込んだところで不特定多数に一瞬で消費されるだけなのに、それでも指が動いてしまったのは現状に不満があるからかもしれない。
 私の恋人には、私とは別に将来を約束した婚約者がいる。その存在を知らされたのはつい一週間ほど前のこと。突然現れた婚約者の存在に言葉を失った私は、「俺も昨日聞かされたばかりなんだ」と狼狽する彼になにも声をかけることができなかった。
 じゃあ別れよう。そう告げれば終わりなのに、たった一言を私も彼も言い出せない。掲示板に書き込もうとしたのは、誰かに背中を押してもらいたかったのかもしれない。
 開きっぱなしの鞄からスマホが明るくなったのが見える。画面を見れば彼からのメッセージを受信していた。「次はいつ会おうか」なんて来てるものだから、彼は私と同じ閉塞感を味わってないんじゃないかと思ってしまう。
 メッセージに返信はせず、目を閉じてタクシーの揺れに身を委ねる。きっと私はこのことを誰にも明かすことはできない。

2/8/2026, 12:58:45 AM