「おい、待てよ。待てって!」
私は呼び止められたが、今すぐ逃げ出したかった。理由? そんなもの、怖いからだ。絶対零度のようにも感じられるが、灼熱の溶岩にも感じられる見られてるだけで緊張感が走る眼差し。あぁ、この目が嫌だった。有無を言わさぬこの目が。手首を掴まれている訳では無い。しかし動いてはいけないようなこの圧が私を縛り拘束する。ピリリとした緊張感の中、次の言葉が発される。
「なぁどこが嫌だったんだ。別れるってどういうことだ」
至極理解できないと言わんばかりに動揺している彼。そりゃそうでしょうね。思えば一言も理由を言っていないし、そういった素振りも見せていない。しかし、言えない。言えるはずがない。「あなたが怖かったから」なんて、怖い相手に言える? 少なくとも私は言えない。今も怖くて足がすくんで膝が今にも笑いそうなのだ。
「俺に非があるなら謝らせてくれ。だから、どこが悪かったのか教えてくれないか?」
私がこんなにも彼を怖がるのには訳がある。過保護なのだ。束縛が強いのではなく過保護。夜の8時以降にで歩けば心配されるし、少しでも体調が悪そうな素振りを見せれば強制的に休まされる。お陰様でもう有給がほとんど残っていない。前に一度、それとなく伝えてみたらなんともないような顔で「当たり前だろうが」と返されてしまった。その後にあの温度差が狂ったような眼差しで「嫌か?」と尋ねられた。あの眼差しで見つめられると身体は熱いのに指先が冷えてくる。そして本能からけたましくサイレンが鳴り響くあの感覚は何度も体験しても恐怖のままだった。
「な、なんにも……」
「なんにもないわけないだろうが。何かあるから別れを切り出すんだろ?」
やめてくれ。その目で私を見ないでくれ。何を考えてるのか分からないんだ。表情が見えないんだ。今の彼が怒ってるのかも悲しんでるのかもが、一切分からない。だから不気味で恐ろしい。一時の恐怖が積もり積もって爆発したのだ。あぁ、息が、息が苦しい。上手く吸えない。ぜひゅう、がひゅっと喉から音が鳴る。私は立っていられずそのまま倒れ込んだ。すると、彼は私に勢いよく駆け寄って、背中をさすった。
「おい! 大丈夫か! 吸うな、吐くのをイメージしろ」
「ゆっくり、そうだ。」
数分してはひゅ、はひゆっ、と息が落ち着いてきた。彼は私を近くに座らせ、どこかへ行った。逃げるなら今だ。しかし、相手は私の家を知ってるので、家に帰ったところで篭城戦になる。しかし、今の状況よりは篭城戦の方がいいだろう。立ち上がろうとした時、「おい、どこにいくんだ。」と声がして振り返ると彼が帰ってきていた。
「さっき倒れたばかりだから少し休んどけ」
そう言って近くの自販機で買ってきたであろう飲み物を渡される。そういえば、彼が買ってくる飲み物はいつも私の好みの飲み物ばかりだった。今もそう、麦茶を買ってきた。
「あ、ありがと……」
「いい。それなら飲めるだろ」
そう言って彼は少し離れて隣に座った。数十分くらいだろうか、無言の時間が続いた。
「別れる理由……本当に何も無いのか?」
「……う、うん」
「それは納得できねぇっていうのは、理解してもらえるか?」
「は、はい……ごめんなさい」
「謝って欲しいわけじゃねぇんだよ。でも、このままじゃあ埒が明かねぇな……」
……冷静に状況を整理されるとなんだかわがままを言ってるみたいで恥ずかしくなってきたな。でも怖いものは怖い。
「なぁ……他に、好きなやつでもできたのか?」
私は突然のことに驚き彼の方を見る。そこには冷たいんだか熱いんだか分からない眼差しでこちらを見つめる彼がいた。
「ぁ゛……いや、ちが……」
「じゃあ何が原因だ? 俺に言えねぇことか?」
汗が額をつたう。その時、麦茶のペットボトルが震える手を滑り落ちて地面へ転がり落ちた。私は咄嗟に拾おうとしたが、彼に素早く手首を掴まれ阻止された。
「答えろ。俺に言えねぇことか? 」
「ち、が……」
「じゃあなんだ?」
私は淡々と詰めて来る彼にこれ以上耐えられなくなった。
「ご、ごめんなさい。うそ、嘘なんです。ちょっと最近嫌なことがあって少し……いたずら、イタズラしようと思っただけで……あの、あの!」
あぁ、言ってしまった。私は咄嗟に口元を抑える。すると彼は安堵したようにいつもの表情に戻った。
「んだよ……。はぁ、紛らわしい嘘つくんじゃねぇよ……。」
「……これからは、そんな嘘つくんじゃねぇぞ」
「はは、あはは……」
あぁ、 まって、まって。 違う。嘘じゃない、嘘なんかじゃない。口の中に息がつまり胸が苦しくなる。しかし、もう遅い。彼はなんなんだと言わんばかりにゆるくため息をついている。私は、一生この人から離れられない。あぁ、まって……!胸の内で、声にならない声だけが響いていた。
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【お題:まって】
5/18/2025, 11:19:14 AM