あにの川流れ

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 あなたが、ふと空を見上げたのは薄暮時だった。そろそろ茜色が闇に溶けて、夕日のほとぼりがすーっと濃い青色になじんでゆく。
 いわゆるブルーアワー。
 その独特な雰囲気の中をあなたと並んで歩く。

 たまには道をそれてみよう、と入った路地裏で首尾よくにおいに惹かれたパン屋。おしゃれな紙袋に小麦のフレーバーを溜め込んで。

 「あ、二日目」
 「え?」

 見上げているあなたの視線を辿れば、西の低い空に浮かぶ瘦せた月。

 「あのね、昔のカレンダーでね、太ってく月はね三日の月」
 「え、今あなた、二日って」
 「月始めはね、ゼロ、イチ、ニって始まるんだよ。だから三日月は二日目。一日目の二日の月って、見えないの」
 「へ、へぇ……」

 そこから始まるあなたの三日月ウンチク。

 「べつの宗教ではね、三日月からひと月が始まるんだよ。そういうお国はね、国旗に三日月があるの」

 「三日月はね、クレセットって言うの。あのね、音楽のクレシェンドの語源」

 「アルテミスがね、三日月で方角を教えてくれるの。弓の形なの。そうしたらね、迷わない」

 後ろ手に組んで、たのしそうにそう話すあなた。ぶっちゃけ内容はぜんぜん頭に入らないけれど。いつの間に三日月博士になったのか。
 めんどく――――、奇特な人。
 面倒くさいだなんて言ってません。
 言ってませんったら。

 チラ、とわたくしが持っている紙袋に一瞥。

 「ねえ、きみがさっき買ったパン、なあに?」
 「パンですか? クロワッサンですけれど」
 「んふ、それも三日月が語源」
 「そうなんですね! 知りませんでした」
 「あのね、国旗に三日月のあるお国と戦って勝ったの。その戦勝記念。国旗とおなじ形をたべて、食ってやったぞ! って」
 「考えるものですね」
 「きみのクロワッサンはねマーガリン。まっすぐなのはね、バター」
 「区別のための形だったんですか、これ」

 何となく、まじまじと紙袋の中身を見た。
 見ただけでマーガリンは分からないのに。どうしてか、気になってしまう。

 くすくす、と笑うあなたが見れたので。
 まあ、良しとして。

 「月始め二日の三日月。ひと月にね、一回しか見れないの。空の上に昇るとね、月の角度が変わるからね真っ暗。お月様見えないんだよ」
 「エッ、そうなんですか?」
 「だから見れたらラッキー。幸運。みんな使う。ゲン担ぎ。ねえ、願いごと、どうぞ」
 「エッ、え、いきなりですね?」

 いきなり言われると普段願っていることも、分からなくなる。そして、思い出せない。
 あなたを見ればさっさと願ってしまっていて。
 おいてゆかれないように何とか、何とか、絞り出す。――――明日のお掃除ですべてのほこりを一掃できますように。
 ……本当に、これでいいのか、わたくし。

 また、くすくす。

 「言えた?」
 「い、言えました……」

 にやぁ、と意地悪な笑顔。
 これは碌な願いごとが言えていないのを見透かされている。

 「あっ、あなたはどうなんです?」
 「んふ、願いごとって言ったら叶わないんだよ。だからひみつ」

 いつの間にか、街路灯や建物の向こうのネオンがその光彩を強くしていて。三日月だって見えやしない。
 道路照明のちょうど真下のあなたは、生き生きとしている。それはもう、至極に。

 わたくし、もてあそばれましたね……?




#三日月



1/10/2023, 2:34:09 AM