【耳を澄ますと】
僕はその日、柄にもなく神頼みをしていました。
八月の、暑い日でした。
その日は確か、恥ずかしいことに、高三にもなって迷子になってしまったのです。
受験生の夏というのは、ひっくり返りそうなほどに忙しく、ただでさえストレスの多い毎日を送っているというのに、親も教師も口煩く、やれ勉強だのやれ進路だの偉そうに説教を垂れてくるのです。
そんな夏休みに飽き飽きした僕は、気分転換に散歩でもしようと、家を出たのです。
しばらく黙々と歩きました。数十分かもしれませんし、数時間かもしれません。もしかしたら数分しか歩いていないのかも。
どうだったとしても、夏の日差しの下をろくに暑さ対策もせずに歩き続けたのですから、次第に頭痛がしてきました。最初は数秒おきに頭を小突かれるような軽い頭痛でした。けれど歩いていくうちに、延々と殴られているような、激しい頭痛になりました。
「熱中症か…」
僕は観念して家に引き返して、受験生の日常に戻ろうと思い、立ち止まり、来た道を振り返りました。
驚きました。
そして、自分は余程我を忘れて歩いていたのだな、と妙に感心してしまいました。
そう、僕は全く知らない道に立っていたのです。
僕の周りにはうっそうとした林が広がっていました。周りには住居なんてのは、一軒も見えません。それどころか、電線や標識なんてのも見つかりません。
時間を経るごとに酷くなる頭痛に、文字通り頭を抱えながら、僕は来た道を戻って行きました。ですが、知っている道は一向に現れません。それでもひたすらに歩き続けました。
そうしていると、小さな神社がぽつんと建っているのを見つけました。こんな辺鄙な場所に神社なんて、と思いつつもその神社の屋根の下の日陰になっている部分に腰掛けて、頭の熱が下がるのを待っていました。数分休んだ後に立ち上がり、神社の正面に向き直り、ポケットに入っていたわずかな小銭を賽銭箱に投げ入れました。そして、二礼二拍手一礼、というよく聞くやつを、なんとなくやってみた後、「家に帰れますように、」と願をかけておいたのです。僕は神は信じないたちでしたが、上がり続ける気温と増していく頭痛にうんざりしたのか、人生最初で最後の神頼みをしたのでした。勿論、そんなものに効果があるわけではなく、僕の周りの景色は果てのない林でした。僕は小さくため息をついて、先ほどと同じ日陰に腰掛け、ゆっくりと瞼を落としました。
そうしているうちに眠ってしまったのでしょうか。目を開けると、夕方になっていました。先ほどの頭痛は、まだ完全に消えたとは言い難いですが、少しはマシなものになっていました。
それともう一つ、先ほどとは違う点がありました。
僕の目の前に和服を着た少女が立っていたのです。
「道が分からないのですか?」
少女は拙い発音で僕にそう問いかけました。
僕は小さく頷きました。少女はそれを見て、薄く笑うと、僕を手招きしました。
「案内してあげる。」
少女はそう言って道をずんずんと進んで行きました。僕は慌てて少女を追いかけました。訳は分からないのですが、少女が家に帰してくれると言うのです。僕は自分で道も分からないので、少女の一回りも二回りも小さな背中を頼りに、林の中のあぜ道をただただ歩きました。
少女と僕は歩いている間、一言も会話を交わすとこはありませんでした。今思えば、家の場所くらい説明しなければいけなかったんですが、説明しなくても少女には僕の家が分かるという根拠のない自信があったのです。
その自信は恐らく彼女の風変わりな格好からきていると思います。彼女は今の時代には珍しく和服を着ていました。巫女さんの服に近いような気がします。あの神社の巫女なのでしょうか。けれどあの神社は小さな社が一つあるだけで、どこからどう見ても無人でした。彼女の髪は薄茶色で、肌も白く、全体的に色素が薄いような気がしました。そして髪には、鈴の飾りのついたリボンが左右に付いていて、彼女が歩くたびに、小さく鈴の音が聞こえました。
そして、熱と頭痛で朦朧としていたからかもしれませんが、彼女には狐のような耳が生えていたような気がします。見間違いかもしれません。いいや、見間違いだと思います。でも、確かに生えていた気がするのです。
「着いたよ。」
彼女はしばらく歩くと足を止め、こちらを向いて笑顔でそう言いました。
目の前には、僕の家がありました。
いつの間に林を抜けたのでしょうか。僕の家の周りにあのような林は無かったはずでした。
彼女は「きっと熱が出るからゆっくりと休むんだよ。」と可愛らしい声で僕に向かって話した後、身を翻して走ってどこかに行ってしまいました。彼女の髪飾りに付いている鈴の音が、静かな住宅街に響き渡りました。
礼の一つも言えなかった。
僕はそのことに気づいて、少女を追いかけたのですが、もう少女の姿は無く、ただその場に立ち尽くしました。
彼女の予想通り、僕は高熱を出しました。
思えば彼女の言動は最初から最後まで不思議でした。なぜ僕の家の場所が分かったのか、なぜ熱が出ることを知っていたのか、なぜ狐耳が生えていたのか、なぜあんな場所にいたのか、などと考えれば幾つでも不思議なことは浮かぶのですが、僕は考えるのをやめました。
僕はあの神社を探しましたが、勿論というか、見つかりませんでした。あの神社は幻覚だったのでしょうか。白昼夢でも見ていたのでしょうか。
僕は神などは信じていませんでしたが、神様だって一人くらいいてもいいのかもしれませんね。
僕はあの日のような、うっそうとした林を歩くことがあったら、耳を澄ませてみるのです。
もしかしたら、あの少女の髪飾りの鈴の音が、聞こえるかもしないと、、、
もし少女にもう一度会えたなら、あの時のお礼を言いたいなと思います。
5/4/2026, 1:33:43 PM