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海に沈むのは久しぶりだ。

沈もうと思って、下半身まで浸かったことなら何度もある。
それでも最後までしなかったのは、空からの飛来物が嫌だったからだ。

我が物顔でやってきて、海を──この世界を荒らしていく。
それだけに留まらず、言葉に含まれた毒はこの世界を長く蝕む。
自浄作用が効かないほど蝕まれた海は、本体をも蝕み、本体の生きる世界にまで悲劇を起こす。

波打ち際に立つと、海へ誘うかのように波が足元をさらう。

一歩、一歩と進めば、懐かしくも忌々しい彼処へと辿り着く。
何年も行くことを忌避していたあの場所。
座るものが居なくなった椅子が一脚だけある──本来であれば彼女がいるべき場所。

今更行った所で、海の藻屑で荒れ果てて目も当てられないことになっているに違いない。
そんなわかりきった事を確認した所で、どうなるというのだろう。
ただ絶望しに行くだけではないか。

足元の波が、おいでおいでと手招きしている。
佇み、足を踏み出さないでいると声を掛けられた。

「久しぶりに潜るのでしょう。途中まで一緒に行きましょう」

俺のそばにいたドリームメーカーはそう言うと、俺の手を掴み、海へと進んでいった。

いつもであれば憤慨することだが、強引なその行動が今はどこか嬉しく思う。
海を忌避する気持ちは、まだ克服出来ない。

海へ潜ると視界は、瞑色に包まれる。
夜の空より、僅かに明るいその色は、暖かくもあり冷たくも感じる。

「この海は、本体の記憶も溶けていますからね。ほら」

そう言ってドリームメーカーは何かを掴む動作をすると、俺の前で手を広げてみせた。

そこには、自分の思いを殺して周囲の意見に従った結果、自分の無能さを嘆く本体の残留思念があった。

自分の思いを無碍にした本体は、自分には力がなく、才能もない。人として出来損ないだから、細やかな望みすら叶わないと学んだ。
「人として足りないものを得なければ」と思い込み──正しく使われれば個人の成長へと繋がるはずのその言葉は、何を間違えたのか、本体の自己否定へと繋がった。

自分の全てを否定することは、魂を否定することだ。魂の否定は、生きることへの否定へと繋がる。
生きることを否定する魂に、この世界は無情だ。
生きたくない。人生は辛い。そう思えば思うほどそれを肯定する現実がやってくる。

人を信じては裏切られ、ようやく掴んだ幸せも瞬く間に奪われる。
何故ならば、本体が心の底で「人生は辛いことばかり」と信じているからだ。
現実もその通りになる。

──愚かだ。ただ、自分たちは本体に気づいて欲しかっただけだ。自分の思いを無碍にすると、上手くいかないのだと。わかって欲しかっただけだ。

「私達の役割の一つとはいえ、ヒントのみしか出せないのは辛かったですよね」

ドリームメーカーの言葉に俺は静かに頷いた。

本当は助けたかった。殴ってでも間違った道を進んでいるぞと止めたかった。しかし、魂が望むことに俺達は逆らえない。
唯一出来たのは、彼女を、本体の歪んだ思考から逃がすことのみだった。

「着きましたよ」

ドリームメーカーの言葉に顔を上げると、懐かしいあの場所へ繋がる道にいた。

「貴方の答えがこの先にあります。さあ、行きましょう」

俺は、懐かしいあの場所へ向かうため、重い足を持ち上げ一歩踏み出した。

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1/21/2024, 11:47:53 AM