お題 記憶
「ちょいとそこのお兄さん、面白いもんがあるから見ていかないかい」
ビニール袋をガサガサ鳴らしながらアパートの階段を登っていたら、背後から急に呼び止められた。俺はつい、足を止めてしまった。
「これ、このタバコを吸うとな、いいもんが見れるんだよ」
「…」
「聞いて驚け、何とこのタバコ、自分の中に1番強く残っている記憶が煙の中に浮かぶんだ」
男はそう言って笑うと、持っていたタバコを吸い、煙を吐き出した。すると、煙の中に男が浮かんだ。煙の中でも男は笑っていた。数人の仲間に囲まれて、楽しそうに。
「あの頃は楽しかったなぁ。あいつらとやる仕事が、楽しくて仕方がなかった」
「…」
「今となっちゃあ、バイト終わりの一服が僕の唯一の楽しみだけどね」
男はそう言ってまた笑う。お兄さんも一服どうだいと男が言うので俺は仕方なく、一本受け取って火をつけた。本当は、少し、期待していた。一瞬だけでも楽しい記憶を思い出せたら、最後に少しは軽くなると思った。しかし、そんな願いは虚しく散った。わかっていた。俺の記憶は、不安と恐怖と過労と涙でドロドロだ。男は黙って見つめていた。ひどく惨めな気持ちになった。いっそのこと、さっきみたいに笑ってくれたら良かったのに。
「…なぁ、お兄さん、一旦僕と休憩しないか」
「…は」
「いっぱい、耐えて来たんだろ。辛かったなぁ」
「…な、に…急に」
「明日桜を見に行くんだ。お兄さん、ちょいと人助けをすると思って付き合っておくれよ。今日はそうだな…星を見よう。僕の好きな酒だが、ご馳走するぞ」
男は勝手に話を進める。俺はいいなんて一言も言っていないのに。桜とか星とか酒とか、釣り、映画、スキーもいいな、なんて、冬は終わったばかりなのに。ビニール袋からロープがこちらをのぞいている。やめてくれ。もう決めたのに。
「…その袋、僕が持ってあげるから、今は泣きなよ、思いきり」
軽くなった手のひらがぼやけて霞む。とめどないそれが止まる頃には星がきらりと瞬いていた。男がくれた酒を口に含む。久方ぶりに味がして、嬉しくて、明日が少し、楽しみになった。
3/25/2025, 3:52:16 PM