耳を澄ますと
「あの小川のせせらぎがきこえるか」…という、禅の和尚さんの有名な言葉がある。外国の書籍にも引用され、『エースをねらえ』でも引用されていた。まあ、“エース”のほうは、「あの滝の音がきこえて?ひろみ」と、お蝶夫人が言うんだが。
これはとてもわかりやすい表現だ。「いま」に居て生きるにはどこからとっかかればいいのか、ズバリで指さしてくれる。「動き」とともにあっての「きこえるか」なのだ。
「音」は「いま」のものだと思う。「音」が「鳴る」のも、音を「きく」のも、「いま」だ。音である物理的空気振動は、その「動き」と「聴くこと」が一体だ。
さて、確か、「あの小川の…」という言葉が出るまでの経緯はこんなだった…
禅寺の和尚さんと若い僧が、山の中を歩いている。若い僧には悩みがあった。「“禅に入る”にはどうすれば良いのだろう」と。そればかりぐるぐると考えていたので、和尚さんが道々に話すことも耳に入ってなかった。若い僧の様子に気づいた和尚さんは休憩を取ることにして、「上の空のようだが、どうした」と問うた。若い僧は悩みを和尚さんに話した。すると和尚さんは、「あの小川のせせらぎがきこえるか」と言った。若い僧は自分の悩みで心がいっぱいだったので、小川のせせらぎの音どころか、木々を渡る風が鳴らす葉の音も、和尚さんの話すらきこえていなかった。和尚さんが「きこえるか」と言うので、若い僧は静かに耳を澄ました。そのうちに、小さくだが、確かに水の流れるせせらぎの音がきこえた。「いま、きこえました」と若い僧が言うと、和尚さんは「そこから禅に入りなさい」と言った。
「いま」に意識が戻ってきた若い僧。悩みごとで頭がいっぱいだったときと、せせらぎの音をきくべく耳を澄ましたときと、意識状態も集中の程度も、「いまどこにいるか」も、まるで違っていたはずだ。「せせらぎの音」を見つけるために、「いま」の自分の周りの状況にオープンになり、「せせらぎの音」をめざして集中する。“禅に入るとは、「いま」に居ること”とも聞いたことがある。
5/5/2024, 6:25:58 AM