この街には、昔懐かしいという言葉がよく似合うパン屋があった。
僕は小さい頃からよくそこへ行って、必ず塩パンを買う。
なぜ、塩パンを買うかって?そりゃあうまいからさ。
ここの塩パンは、どんなパン屋よりも群を抜いて美味しいんだ。
小さい頃に母さんが買ってきてくれてから、長年のファンになったって訳さ。
店主のおじさんは、優しくて、僕が来るとニコッと笑って軽く世間話をしてくれる。
店主の奥さんは、よくパンをサービスしてくれて、二人とも本当に良い人なんだ。
だけど、ある日
大好きな塩パンが不味くなった。
いつもパンを作る店主が変わった訳じゃない。
強いて言うなら、店主の奥さんが行方不明になったらしい。
警察も動いているが手がかりは一切出て来ず。だから捜査は難航しているらしい。
店主も最初はパン屋を休み、奥さんを探していた。
しかし、捜査が難航していくに連れて、店主も塞ぎ込むようになった。
見兼ねた街の人達は、店主に少しでも元気になってもらうために色々な話をしてあげた。
そのうち、もしかしたら貴方が焼くパンの匂いに寄せられて戻ってくるかもしれない。と言う者が現れた。
店主は、その言葉に惹かれ
いつもやっていた通りにパンを焼くことになった。
久々に営業し始めたパン屋には
沢山の人が押し寄せた。
大丈夫だった?
奥さんならきっと大丈夫よ!
ここのパンを食べると元気が出るんだ!
など沢山の励ましの声で溢れていた。
どのパンも変わらず美味しい。
なのに
何故か塩パンだけが不味い。
周りの人からもあそこの塩パンってあんな味だったっけ?という疑問の声が聞こえていた。
僕は、きっと奥さんのことが心配で
塩パンの作り方を間違ってしまったのかと思った。
だけど、何日来ても味は変わらず不味いのだ。
流石にここまで来ると、心配よりも興味が勝ってしまう。
僕は、店主にそのことについて聞くことにした。
世間話の中でオブラートに包みながら
「ねぇ、おじさん。相変わらずここのパンはとても美味しいよ。」
「ところでさ、塩パンなんだけど…作り方とか変えたの?ま、前より少し味が違う気がしてさ」
ついつい、目を上に上げてしまう。
恐る恐る正面にいるおじさんをチラリと見つめる。
初めて見た。
あんな顔の店主は。
怒っているとも言えないし、悲しんでるとも言えない。なんとも言えない顔。
瞳も少し揺れているような気がした。
「ご、ごめんなさい。奥さんのこともあったのに変なこと聞いちゃって」
すると、店主はハッと目を開き、慌てたように口を開けた。
『すまないね、すぐに答えられなくて。塩パン、美味しくないよな…』
予想外な答えだった。
店主の口からその言葉が出るのは。
店主は続ける。
『自分でもね、よく分からないんだ。味覚がおかしくなった訳じゃない。塩パン以外はいつも通りなんだ。でも、何故か塩パンだけがどうしてもあの味にならないんだ。もちろん、レシピ通り作ってる。工程に狂いはない。』
店主は頭を抱え、うぅと唸る。
『妻は、君と同じでこの塩パンが大好きだったんだ。毎朝のように貴方の塩パンが食べたいと言っていた。自分も塩分に気をつけなさいって医者から言われただろう?と返す日々。何気ない。それが自分にとって幸せだった。』
『なぁ、○○君。妻は、大丈夫だろうか。ずっとずっと彼女を探しているんだ。どこにもいない。夢にだって出てこない。もう、私は限界なんだ。
パンを作ることはもちろん好きさ。
でも、隣に妻がいる人生のほうがそれの何百倍も好きなんだ。』
店主は、ポタポタと涙を流しながら、嗚咽と共に言葉を吐き出した。
それを見ているこちらも段々心が苦しくなり、自然と涙が出てきた。
「おじさん、大丈夫だよ!奥さん絶対無事だから!きっと、おじさんの美味しい塩パンが食べたいって警察の人と話してるかもしれない!帰ってくるよ!必ず!」
僕は、店主に出来るだけ慰めの言葉を掛けた。
店主も嗚咽混じりで、ありがとうありがとうと言っていた。
僕は、おじさんに会釈してそのまま家に帰った。
家には誰もいない。
独り暮らしは、やっぱり少し寂しいな。
でも。
チラリと暗い部屋で唯一光を照らすパソコンを覗く。
それを見て、ニコッと笑う。
1週間後、あのパン屋は潰れてしまった。
店主は、首を吊って亡くなっていたところを警察が見つけたらしい。
街の人達は、悲しい気持ちでいっぱいだった。
僕は
やっぱりかと思った。
最後まで、あの塩パンは不味いまま。
あの店主も酷かったな。
精神的に病を患っていたとはいえ、奥さんを
殺しちゃうなんて。
僕は知っている。
隠しカメラって知ってる?
僕はそれをあのパン屋の厨房に仕掛けたんだ。
なんでかって?
だって、つまらなかったんだもん。
優しい二人。
裏が無いわけない。
だから、夜な夜な忍び込んでカメラを仕掛けてみた。
そしたら、案の定
あの二人は普段からケンカばっかしてる。
外面だけは優しい夫婦。
でも、内面は仲が凄く悪い夫婦ってわけ。
あの日は、特に酷かった。
いつもより激しくケンカしてたなぁ。
それで、店主が勢いよく奥さん目がけて包丁刺しちゃうんだもん。
久々に興奮したよ。
それで、頑張ってそれを綺麗さっぱり処理して、
始まったのが被害者モード。
上手く街の人達騙して、裏ではいつバレるかソワソワしてる。笑える。
あーあ、結局
自責の念に駆られて、自殺かぁ。
つまらないの。
あ、でも
一つだけ面白いことがあった。
あの塩パン。
不味くなった理由
僕の予想だけど、奥さんが塩パン好きなのは
本当なのかもね。
店主もちょっとは奥さんのこと好きだった。
だから、あの塩パンは
店主の優しさがあったから
美味しかったのかもね、きっと。
:優しさだけで、きっと
5/3/2026, 9:29:54 AM