この場所で生きるのは難しいです。
美しい海が水底を透かして見せるそれを思い起こさせる瞳に見つめられ、言葉の意味はおざなりとなる。
はあ、と気の抜けた返事をしながら手を伸ばすと、柔らかな毛に覆われた小さな手がそっと制止するように上に重ねられた。ふっくらと丸みを持った口元が控えめに開き、同じことを繰り返す。
この場所で生きるのは難しいです。
まるで別離を匂わせる言い方だ。ここじゃない何処かのほうがマシ。もしくは、貴方がいるこの場所は居心地が悪い。彼女はすっと立ち上がり、開けっ放しの扉の奥に目をやる。部屋と玄関をつなぐ短い廊下と、その奥にある外へと続く扉。彼女は振り返り、僕を試す。
僕は重い腰をあげ、玄関へと向かう。正確には玄関に向かう途中の、廊下に置かれたキッチンの戸棚だ。柔らかな尻尾を僕の足に巻き付け、彼女は戸棚と僕を見やり大きな声で強請る。
イヤです。
ピピっと検知音が流れたあと、機械音声がそう告げる。
「イヤよイヤよも好きのうち、かね?」
おやつの袋から乾燥ホタテを取り出し、彼女の前にそっと置いた。行儀よく座り、シャクシャクと軽い音を立てて堪能するその背中をそっと撫でる。
人と猫が言葉でやり取りできるようになるのはいつになるやら。次世代猫語翻訳機の精度もたかが知れるようだ。
2/11/2024, 11:07:11 PM