『月夜』
俺はずっと、あの夜に囚われたままだ。
あの頃の俺は、全てを投げ捨てたくてただ酒を煽っていた。この鬱陶しい考えも社会への苛立ちも、酔っている間だけは忘れられるような気がした。
全部がどうでも良かった。
死にたくて、死ねなくて。惰性で生きていた。
ウィスキーのロックを片手に机に突っ伏す。
ぼんやりとカウンターの先に並ぶ酒瓶に反射する灯りを見つめていた。薄暗い店内では十分眩しかった。上下がぐるぐるして胃が気持ち悪い。
それでも、俺は酒を飲むしかなかった。
そんな俺に君が声をかけてきた。
無視をしようとも思ったが、無様な男にナンパするような物好きな女の顔が見たくなった。
艶やかな黒髪は緩やかな天然ウェーブを描き、耳たぶに青く光るピアスが印象的だった。他の女とは違って薄めのメイクで、清楚風な装いが余計に男遊びをしていそうに思えた。
「おにーさん、ずいぶん飲んだのね」
そう笑って君は俺の隣に座った。
「うるせぇ」
乱暴に返すも気にも止めていないようで、ジントニックを頼んでいる。
「はい、乾杯」
君が俺のグラスに音を立てる。そうされたら飲むしかないのはあまりにも酒カスの思考だった。
「おにーさんさ、このあと少し付き合ってよ」
ここは私が奢るからと君は笑った。
作り笑いの反吐が出るような醜い笑顔だと思った。
ふらつく俺の手を引いて君は俺を海に連れて行った。こんな夜中に海に来て、何の意味があんだと思った。春とはいえまだ3月の初め、夜は少し冷える。それでも、酔いだけが俺の全てで、酔っていれば寒さなんて気にならなかった。
君は波打ち際まで来ると俺の両手をとった。
そうして「耳を澄ませてごらん」と言う。
何を言っているんだと思った。
それでも酔いが回りすぎた俺は何も言えなかった。大人しく黙って耳を澄ます。
穏やかな波の音だけが響いていた。
「落ち着くでしょう?」と笑う君が空を見上げる。つられて俺も顔を上げる。
そこには少しかけた満月の手前の月が浮かんでいた。綺麗だと思った。月を見上げたのなんていつぶりだろうか。
欠けているくらいが俺には、いや、俺らにはちょうどいいのかもしれない。
手を繋いだまま、2人で水平線を目指す。
靴やズボンが濡れることも厭わず、そうするのがまるで正しいかのようにゆっくり歩く。
月から君に目線を移す。視線に気づいた君と目が合う。「月が綺麗でしょう?」と得意気に君が笑う。
その笑顔はさっき見たものとはかけ離れていて、何よりも輝いて見えた。
そのあとの記憶はない。
目が覚めたら俺は海岸沿いの階段に酔いつぶれていた。君はもういなかった。
朝日が眩しくて、世界を薄いベールに包んで朧気にしていた。
あの月夜は夢だったのだろうか。
全身からする潮の匂いだけが、あの夜が現実だったと証明してくれる。
君の名前を聞き忘れてしまった。
俺だけがまだ、あの夜に囚われている。
2026.03.07
57
3/7/2026, 10:49:47 AM