その部屋は常に前に向かって走っている。ただひたすらに走っているのだった。家具はない。装飾もない。真っ白な壁に、小さな正方形の窓が存在するだけであった。
私はこの240年をこの部屋で過ごしてきたが、何もない筈なのに、不思議と心地よさを感じるようになっていた。気づけば退屈も空腹も、何も感じる事ができなくなっていた。この部屋の中に、私はただ居るだけなのだ。
私は外を忘れていた。ここが何処なのかも覚えていない。私は窓も忘れていた。外を見るために置かれていた窓を。私は部屋を忘れそうになっていた。あまりにも長くいるこの部屋を。動き続けているこの部屋を。試しに、私は窓を覗いてみた。動き続ける風景。変わりゆく風景がそこにはあった。一面に咲き誇る花々。其処で遊ぶバンビ達。聳え立つ山。奥に広がる針葉樹林。長い間は知り続けた部屋は、スピードが衰えることも知らずに、今も動き続けていたのだった。私はまた、部屋が動いていたことを思い出し、窓を思い出し、外を思い出し、退屈や空腹、その他あらゆる感覚を思い出した。風景は私に欲望を与えた。外に出たい。あの風景を、窓越しではなく、私の目と体で感じながら、見てみたいのである。部屋から出なければならない。何としてでも、あの風景を観るために。
こんなにもあらゆるものを思い出したにも関わらず、どうも部屋への侵入方法を忘れてしまっていたようだった。ドアなんてものはここに無い。この部屋は、出ることを前提に造られていないのかもしれない。侵入方法さえ知る事ができたならば、私は今すぐあの景色をみることができたろうに。こんな時に爆弾があれば、こんな退屈なところを吹き飛ばせるだろうに。自力で何かをやるしか無い。壁に突撃をしてみるが、びくともしない。私に力はない。この部屋で放心し、怠惰な生活を続けていたことで、体は衰弱しきっていたのだ。ならば出る方法は何か。ふと、私はこの部屋が動いていたことを思い出した。この部屋が事故を起こせば、壁が壊れて抜け出せるかもしれない。私は走力の源があるであろう床に衝撃を与えた。無鉄砲に地団駄を踏んで、方向を狂わせる。しかし丈夫なもので、部屋は真っすぐ進み続けているらしかった。しかし私は折れない。全力で部屋を駆け回り、時々奇声を上げて部屋を狂わせる。そんなことを何日も何日も繰り返すうちに、いよいよ部屋は直進を保つことを忘れたようで、狂ったように蛇行していった。そしてついに、部屋は転んで、壁や床が崩れ、完全に壊れたのである。私はついに外に出ることができたのだ。
然し其処にあの花や山等の姿はなかった。巨大な建物が聳え立つだけ。人々が行き交う、暗い世界だった。私は絶望感に伏す。こんなにもおどろおどろしく、禍々しい風景があったのかと。部屋の姿はもうなかった。ならば私は歩き続けよう。あの景色を見るために。もう一度行こう。美しい自然を目の当たりにするため。この道程を進んで行こう。そうするしか無いのである。
4/12/2025, 10:40:34 PM