久住弥生

Open App

掴んだはずの赤い風船が空に飛んでいった。

手を伸ばして、確かに捕まえたと思った瞬間だった。
足が滑って、あっ落ちるなって、そう思ったのに、
気づいたら私は、元いた歩道橋の上に座り込んでいた。

「なにやってんだよッ」
怒鳴り声にハッとして私は振り返った。誰かが私を引っ張ってくれたんだ。知らない男の子が、同じく座り込んでいた。私を引っ張った時に一緒に転んでしまったらしい。
「正気かよ、こんなとこから身を乗り出したら、落ちるに決まってるだろ!」
そう言いながらも、彼は立ち上がって私に手を伸ばしてくれた。
「風船がそこの看板に引っかかって…届きそうだったから、取ろうとしただけよ、悪いことじゃないでしょ」
風船を離してしまった少年が下にいたはず…と、覗き見てみたら、もうどこにも見つからなかった。
「あらら、もう諦めちゃったのかな」
振り返ると彼は目を見開いて、息を呑んでいた。それからふーーっと息を吐いた。
「あんたが落ちてたら、その子は一生今日のことを忘れないぞ。恐怖と、後悔をずっと、抱えていくことになる。それは、悪いことじゃないのか」
彼の声は震えていた。握った拳も震えていた。私は少し考えて、言った。
「ごめんなさい、怖い思いさせちゃって」
彼は横に首を振った。
「それから、ありがとうございます、助けてくれて」
「わかってくれたなら、それでいいよ」
静かに呟くと、少し遠くにあったスクールバッグを拾って、もう一度戻ってきた。
「自分のことはもっと大事にした方がいい。良いとか悪いとか、そういうことの前に」
じゃあ、と、今度こそ彼は去っていった。
私は、ああいう人こそ、ほんとの善人なんだなと思った。

空にはもう風船は見えない。
私は彼とは反対の階段を降りる。
踏み外さないよう、ゆっくりと。

#善悪

4/27/2026, 11:14:27 AM